アガサ・クリスティ最晩年の作品。1972年古き良き時代は過ぎ去りポワロは過去の人。しかしオリヴァ夫人とともに若者のため一肌ぬぎます。ポワロとアガサ・クリスティの分身オリヴァ夫人は私たちに最後に大切なことばを残してくれました。ありがとう、アガサ・クリスティ。
「象は忘れない」のあらすじ
推理作家アリアドニ・オリヴァ夫人は文学者パーティでミセズ・バートンに会います。
そこでオリヴァ夫人はミセズ・バートンにオリヴァ夫人が名づけ親にあたる女性の両親の調査をたのまれます。
その女性の両親はすでに心中していたのですが、調査の内容は妻か夫か、どちらが先に殺したものなのかという奇妙なものでした。
実はミセズ・バートンの息子の結婚相手がそのオリヴァ夫人が名づけた娘だったのです。
十数年前の事件に困ったオリヴァ夫人はポワロのもとを訪れ助けをもとめます。
冒頭オリヴァ夫人はパーティでメレンゲが歯にくっついて苦戦します。かつてはリンゴを大量にかじっていたのに。トシをとりました。
それともまだ三年前の「ハロウィーン・パーティ」(69年)事件が尾を引いているのでしょうか。
今回もアガサ・クリスティはオリヴァ夫人を通じて私たちに人生のさまざまなメッセージを投げかけます。
「象は忘れない」の時代背景
アポロ11号が月着陸して3年後、ビートルズが解散して2年後です。英国では北アイルランド紛争が激しくなり「血の日曜日」事件が起こりました。これはU2の歌でも知られています。
IRA(北アイルランド軍)とイングランドの紛争は激しさを増していきます。古き良き大英帝国は崩壊しつつありました。
街角の若者たちには当然、ビクトリア朝時代の面影はすでにありません。古い英国のひとびとには人種がちがうのではないかと感じたでしょう。首相はまだ保守党エドワード・ヒース氏でした。
ミュンヘンオリンピックでイスラエル選手団がゲリラに殺害されます。モサドの復讐が始まります。
さらにイスラエルのテルアビブ空港で日本赤軍が銃乱射。このテロは凄まじい死傷者を出します。
日本では浅間山荘事件が起きました。過激派の勢いはまだ失われていません。
アメリカではウォーターゲート事件発覚です。
テロ、紛争、混沌とした時代です。
まだ生きていたポワロは過去の人のような描写で描かれます。
しかし古き良き時代の生き残りであるポワロとオリヴァ夫人は自分をつらぬきます。
「象は忘れない」はエルキュール・ポワロ最後の作品です。(「カーテン」は第二次大戦中に書かれました)
アガサ・クリスティはなんだかんだキャラに言わせても、最後まで若者を見下した書き方をしませんでした。
「象は忘れない」たとえ
タイトル「象は忘れない」はたとえ話のたぐいのハナシです。オリヴァ夫人が子供の頃教わったハナシをポワロにします。
象が仕立て屋に鼻を針で刺されます。何年もして忘れた頃仕立て屋は象に鼻から水をかけられます。象はひどいことをされたのを忘れなかったのです。
オリヴァ夫人は事件を調査するのに自分の入れ歯の話題から象に結び付けていきます。この話のもっていきかたはさすがアガサ・クリスティです。
自分の老いと過去の記憶を自然に「象」のハナシに導きます。「象」という意味にはタブーの意味合いもあります。
そう言えば、ピンクの象という表現もありますね。
これは意識が吹っ飛んだ状態をあらわします。疲れてお酒を飲んで星空をダンボが飛んでいたら要注意です。
アガサ・クリスティは「象」を遠い昔を記憶しているひとびとの暗喩として使います。しかし昔を忘れない「象」たちのなかにはアガサ・クリスティにさえ、遠く感じる時代のひとも含まれています。
今回は乳母や名付け親など過去のかかわりがキーワードになります。
ミセズ・オリヴァは昔の乳母の後から部屋をでながら、あたりを見まわした。少女たち、小学生の男の子たち、子供たち、いろんな年頃の大人たちの写真、彼らは昔の乳母を忘れず、ほとんどが晴着を着飾り、きれいな額縁に入れて送ってきていたのだ。彼らがいるからこそ、この乳母はわずかな当てがい扶持で、なんとか楽しい晩年を送っているのだ。ミセズ・オリヴァは、とつぜんわっと泣き出したくなった。
象は忘れない アガサ・クリスティー 中村能三 訳
アガサ・クリスティのアバターであるオリヴァ夫人が昔の乳母に再会したときのシーンです。私は泣きました。アガサ・クリスティは執筆中80歳くらいでしょう。
この「象は忘れない」には過去の事件が三つ語られます。
一つはポワロが本作でも登場するスペンス警視と、人生がうまくいかず生きる気力もなく、やる気もない、死刑が確定し男の冤罪をはらした難事件「マギンティ夫人は死んだ」(52年)事件。
スペンス警視はこの件の依頼者です。
二つ目が「マギンティ夫人は死んだ」事件から十八年後の、事件のヒントがウソをつく習慣をもつ被害者少女が残した「人殺しを見た」という証言だけというこれまた難事件である「ハロウィーン・パーティ」(69年)事件。
この事件では今度はポワロがスペンス警視に協力を依頼します。
それと三つ目はかなり古い事件です。
遠い過去を遡り、丁寧な聞き込みから事件を再現し、失われていた事実を浮き彫りにして依頼者の母親の無罪をはらす「五匹のこぶた」(43年)事件です。
これら三つの作品はすべてため息しか出ない素晴らしいミステリです。ご一読をおすすめします。
そして過去を遡る事件としては、この「象は忘れない」もそうですが、次のトミーとタペンスシリーズ最後の作品「運命の裏木戸」(73年)では遂に時計の針を50年前まで巻き戻します。
この作品はクリスティの遺作です。
エルキュール・ポワロ
「象は忘れない」はリアルタイムのポワロ最後の事件になります。
自慢もしなくなりました。
赤スグリのシロップだの黒スグリのシロップだのあいかわらず甘いものをたしなんでいます。
なんとなく静かです。ヘイスティングズ大尉の気配もありません。マンションに執事のジョージとひっそりと暮らしています。
ミス・レモンも登場しません。おそらく退職したのでしょう。
ポワロはオリヴァ夫人に「黄金の犬」の執筆をあきらめさせます。
そして調査をちゅうちょするオリヴァ夫人の背中を押す重要な役割も演じます。
人物を見極め推理する、ポワロの灰色の脳細胞は今だ健在です。
「象は忘れない」まとめ
アガサ・クリスティは「象は忘れない」で難しい1970年代を生きています。そしてこの時代の若者の手助けをポワロとオリヴァ夫人ともにします。
遠い古き良き時代をさかのぼって。
クリスティにとって70年代がヴィクトリア朝と違いどのような印象だったかは八十歳記念作品「フランクフルトへの乗客」(70年)をご覧ください。
さらにアガサ・クリスティはつらい過去やドラマチックな事件に対するアドバイスをオリヴァ夫人を通じて残してくれました。
「いまに生きなさい」という言葉です。