アガサ・クリスティ渾身の豪華ミステリです。いくつものドラマが複合的に展開します。悠久のナイルの流れは神秘的に登場人物たちに審判をくだします。1937年のエキゾチックなミステリです。ポワロ、レイス大佐のツインキャスト、ヴィジュアル度は時代を超越しています。
「ナイルに死す」のあらすじ
大富豪で容姿端麗なリネットとサイモンの新婚旅行はナイル川の豪華客船の旅でした。
しかしそこにひとりの女性が同乗します。彼女の名はジャクリーン・ド・ベルフォール。
かつてリネットの親友でありサイモンの婚約者でした。
リネットは親友を裏切りジャクリーンが心から愛したサイモンを奪ったのでした。
さらに乗客に国際的なテロリストが紛れ込んでいるという情報がもたらされます。
1937年当時ナイルの情報ってどれだけのひとが知っていたでしょうか。
イギリスの帝国主義がまだ及んでいたとはいえこんな豪華な客船で船旅は贅沢のきわみといえます。
「ナイルに死す」はクリスティの映画を観ているかのような幻想を私たちに抱かせます。
まるで湿度や空気感まで再現してるかのようです。
アガサ・クリスティは非常に安値で当時のひとびと(現在の私も)にナイル川の客船のチケットを用意してくれました。
古今東西で稀有なホンモノの作家です。
「ナイルに死す」の時代背景
ジョージ6世が王位につきました。
前年本編でも言及される「ひらいたトランプ」の事件が発生その時ポワロはレイス大佐と知り合ったとされます。
ヨーロッパではナチスが台頭、スペインの古都ゲルニカが爆撃されます。
伝説の外国人義勇兵部隊、国際旅団の先陣を切ったのがイギリス人部隊でした。
国際旅団は各言語ごとに部隊分けされエイブラハム・リンカーン大隊には日本人義勇兵ジャック・白井が参加していました。
しかしブルネテの戦いで戦死。他にヘミングウェイ、マルロー、カミュ、キャパなど文化人が参戦しています。
すさまじい損耗率にもかかわらず国際旅団はその名を歴史に刻みます。
ファシズムとともに左翼思想も世界に広まりぶつかるようになります。
豪華絢爛ナイルの旅
「ナイルに死す」は非常におトク感の強いミステリです。
アガサ・クリスティの実際のナイル川遊覧体験が存分に生かされているからです。当時そんな余裕があるひとはまれでした。
序文でアガサ・クリスティ自身が逃避文学だといわれてもナイルの日差しを楽しんでくださいと書いているのはそういう事情があったためでしょう。
イギリスは不況ですからね。
ちなみにポワロも大金持ちであるとされています。
旧約聖書サムエル記
ポワロがリネット・ドイルからジャクリーンが逃れるための依頼を断るシーンが印象的です。
これは預言者ナタンからダビデ王が「おまえが言うな!」と指摘されるくだりです。
ある金持ちが客をもてなすのに自分の牛や羊が惜しくなり羊一匹しか持っていない貧乏人の羊をとりあげ客に供します。
これを聞いて怒ったダビデ王に予言者ナタンは部下の女房に一目ぼれしてその部下を死地に送り込んで殺すアンタも同じだよと言い切るのです。
容姿と財産があるのに貧しい親友のたったひとりの恋人をうばったリネットにポワロはこのくだりをはなします。
このときのポワロはとても悲しそうです。
依頼は断るのですがジャクリーンにはなしてみることは約束します。
これはノーギャラです。ポワロはクールかつホットなキャラです。そして人情があります。
「ナイルに死す」はスピリチュアル?
その後もストーカーとしてリネットとサイモンの新婚旅行をつけまわすジャクリーンに何度もアドバイスをします。
そしてあなたは星を間違えてはいけないとさとします。
ポワロは予言者のようです。
クリスティはジャクリーンというヒロインを哀しくも美しい女性として据えています。
このナイル川の旅では人生の不条理をかかえた人物が幾人も乗船しています。
そのなかでもジャクリーンにはポワロがおもんぱかっているのがよくわかります。
縁があった女性だからでしょう。ポワロはある意味霊的な存在としてジャクリーンにアドバイスしています。
これはクリスティのこころのアドバイスかもしれません。人生にはどうにもならないことがあります。道を間違えてはいけません。
またフェイという状態を説明するくだりがあります。
これはアガサ・クリスティの別のミステリにもでてくるスピリチュアル的な状態です。「ナイルに死す」もその絢爛さとともに暗示的なミステリです。
ポワロはリネットにもアドバイスをしています。
今の結果は以前の行為によるものだともいいます。あなたは何でもできる立場なのだからもとに戻すこともできるのだともいいます。
若い方はこの本一冊でも学べることは多いでしょう。
私は以前映画を観たのですが「ナイル殺人事件」というタイトルのせいかさっぱり身についていませんでした。
レイス大佐・・・
ポワロの相方として登場します。ポワロに無駄な質問をしないとほめられます。
映画ではポワロをねらったコブラをシトメます。
「ナイルに死す」ではけっこう動いてテロリスト案件をややこしい遊覧船にもちこむ役割です。イイキャラなんですが。
ひなだんキャラとして。
「ナイルに死す」のまとめ
「ナイルに死す」は美しいミステリです。
映画のようです。
このはなし以前の「オリエント急行の殺人」や「ひらいたトランプ」事件にも触れるくだりがあります。
それらの事件と比べても「ナイルに死す」は格別ぜいたくなミステリです。
キッチンにいながら魂をエジプトにいざないます。
ここまで読者をかんたんにトランス状態にもっていく小説はそうありあません。
第二次大戦前ではどれほどのレベルの小説だったのでしょうか。
この遊覧船で人生が変わったキャラが幾人もでます。
この旅は人生そのものです。
「ナイルに死す」はクリスティの他の作品とおなじように奥行きのあるミステリです。
アガサ・クリスティは「問題は未来であって、過去はどうでもいいのである」と大事なことだから二回書いています。
これは最後のポワロもの「象は忘れない」でも出てくるクリスティの貴重なアドバイスです。
このアドバイスを胸に刻んでおきたいですね。
登場人物に左翼テロリスト、左翼主義が出てくるのは世情でしょう。
その時代にあえて「ナイルに死す」を投じたアガサ・クリスティには頭が下がります。
ガッツがある大作家です。