春にして君を離れ ABSENT IN THE SPRING アガサ・クリスティ(メアリ・ウェストマコット) 中村妙子 訳

「春にして君を離れ」はミステリの女王アガサ・クリスティのメアリ・ウエストマコット名義の3作品目です。1944年に出版されたアガサ・クリスティの代表作のひとつです。心理サスペンスのワクを超えて高い評価を受けている作品です。

アガサ・クリスティは「超」がつく大作家

アガサ・クリスティは世界でもっとも売れた作家としてギネスに認定されています。聖書とシェークスピアの次に読まれている作家とも言われていますね。

現在もポワロシリーズやミス・マープルシリーズは放映されています。アガサ・クリスティのミステリはあえて秘しますが元ネタにもたいへん使われています。私にはポワロといえば熊倉一雄さんです。

「春にして君を離れ」のあらすじ」

裕福な家庭の主婦ジョーン・スカダモアがバクダッドに住む娘の病気見舞いの帰り、旧友と再会するシーンから始まります。

暑さと不愉快な環境のなかでジョーン・スカダモアは人生を回想します。彼女がそこで人生の断片をつなぎ合わせていくと浮かび上がってきたものは…。

忘れていた記憶に戸惑うジョーン・スカダモアの姿。これは誰でも起こりえる恐怖です。作家アガサ・クリスティはその彼女の葛藤、ゆれ動く心理描写を淡々と描いていくのです。

「春にして君を離れ」は目を覚ますと忘れてしまう淡い悪夢です。アガサ・クリスティはその淡い悪夢こそが真実であるといっているかのようです。

2019年3月追記

てか、この「春にして君を離れ」を今読み返してみるとある意味「悟り小説」です。

ジョーン・スカダモアの頭がグラグラして現在の自分が作られたもので本当の自分はもっと違うものであると気づきだすところとか。客観的に見つめなおしているもうひとりの自分の存在に導かれて過去と現在、そして未来を行き来するところとか。

ジョーンのようなタイプには稀な体験なんでしょうが、誰の胸にも思い当たるフシがある体験の小説です。ある意味いつも体験している当たり前の体験です。でも、すぐ忘れてしまう。人はすぐまた深い眠りに墜ちていき現実という真実に思える夢の世界に戻ってしまうから。

この小説は市井のただの主婦がアイデンテティを取り戻すタイプの小説ではありません。市井のただの主婦が時間を超越して存在し続けている自分に気づ出し始めた瞬間を描く稀有な小説です。

物理的な自己覚醒の瞬間を描いた小説です。ダンマパダ、スッタニパータのような上座仏教、またシャンカラのインド哲学の世界です。もはやなんだかわかりません。

そして目覚めてもいいことが少ないのはジョーン・スカダモアの自我は知っていました。その人格キャラの今までの人生が足元から崩れていきますからね。ジョーン・スカダモアという自我キャラを与えられた「全体存在」は再び深い眠りに戻り夢を全うします。

余談ですが悟りはまったくこんな感じでおきます。完全に起きてしまうともう眠りにつくことはできません。ゲーム・クリアです。終了です。アセンションにしては良くありません。

「春にして君を離れ」の時代背景

第二次大戦中です。イギリスは本土防衛に必死でした。同じ年に「ゼロ時間へ」(44年)が出版されています。アガサ・クリスティの小説はひとびとにうるおいを与えたことでしょう。

両親とうまくいかない人ほどオススメ

私たちは日常体験を都合よく合理化して生きています。言葉を変えると自分にとって都合の悪いことはなかったことにしがちです。

普通ならこの物語を転機の訪れとして進めていくでしょう。ここで起こった出来事は人生を見つめ直すチャンスでもあるからです。

しかしアガサ・クリスティは単純に物語を終わらせませんでした。受け取り方がいろいろ出来る奥行きのある小説です。

複雑な人間関係や幻想のなかでひとは孤独な存在だとアガサ・クリスティは考えていたのでしょうか。「春にして君を離れ」は時代をこえた問題を内包している小説だといえるでしょう。

ご両親と話しが通じないと感じるひとにオススメです。

シェイクスピアのソネットって?!

シェイクスピアのソネット 98
From you have I been absent in the spring

From you have I been absent in the spring,
When proud-pied April dress’d in all his trim
Hath put a spirit of youth in every thing,
That heavy Saturn laugh’d and leap’d with him.
Yet nor the lays of birds nor the sweet smell 5
Of different flowers in odour and in hue
Could make me any summer’s story tell,
Or from their proud lap pluck them where they grew;
Nor did I wonder at the lily’s white,
Nor praise the deep vermilion in the rose; 10
They were but sweet, but figures of delight,
Drawn after you, you pattern of all those.
Yet seem’d it winter still, and, you away,
As with your shadow I with these did play:

欧米ではシェイクスピアと聖書が教養として重要視されているのはよく知られています。アガサ・クリスティは他にもマザー・グース、ウイリアム・ブレイクの詩からもタイトルをとっています。

「春にして君を離れ」と「サハラ幻想行-哲学の回廊-」(森本哲郎著)

春にして君を離れ」を読んで思い浮かべたのは「サハラ幻想行」でした。

70年代に出版された紀行文です。うだるようなサハラ砂漠のオアシス、ジャネットで著者は20世紀が生んだ二人の人物に思いをめぐらします。哲学者ヴィトゲンシュタインとナチスドイツ総統ヒトラーです。

ヴィトゲンシュタインは「われわれはハエにハエとり壺からの出口を示してやること」の言葉で有名な大哲学者です。

ヒトラーに関してはいまさら説明の必要はないでしょう。

著者の目的はタッシリの壁画を自分の目で確かめることでした。しかしこころならずも砂漠で足どめをされてしまいます。

そこで著者は前述の二大人物の不思議な結びつきを思い出すのです。私はそれがジョーン・スカダモアに重なりました。

これじゃダメだ!あの日の私

「サハラ幻想行」を読んだのは高校時代です。夏休みをとっくに過ぎた夜行列車のなかでした。旅行の帰りです。

私は始業式を忘れていたのです。

暑さとあり余る時間はひとを内省的にするのでしょうか。私は暑さと眠気のなかで遊びすぎた反省をしていました。

「春にして君を離れ」も読んでいれば人生は違ったものになったかもしれません。いやあの夏をなかったことにしてはいけません。

高校時代はクリスティとは縁遠いオタクライフ(当時、この言葉はありませんでしたが)を送っていました。

「春にして君を離れ」のまとめ

「春にして君を離れ」のタイトルは耳にしたかたも多いかもしれません。若い頃良書に出会うのは大切です。私もティーンのときに読んでおけばよかったと後悔しています。

2019年3月追記

この「春にして君を離れ」の凄いところは繰り返しになりますが、その「瞬間」が訪れだした時の物理的な描写をしているところです。トルストイの「アンナ・カレーニナ」のリョービンが覚醒した際にも似たような描写がありましたが、「春にして君を離れ」は覚醒の過程がより詳細です。

「春にして君を離れ」は最初なぜクリスティがこんなタイトルをつけたのか皆目見当がつきませんでした。しかし、ヒジョーにうがった見方をさせてもらいますと、真の自己から経験で構成された自分だと信じている「自我」に戻っていく人物を描いた象徴的な極めて具体的なタイトルですね。

上で若いときに読んでおけばよかったと書いていますが、おそらく私にはチンプンカンプンで読めなかったでしょう。なんせ当時は夢の世界に完全に埋没していましたから。また、人はそれでいいのでしょう。そのためにこの世にいるのですからね。

すべてが独り遊びの世界であると若いうちに気づいたらガックリするかもしれません。トシとってもガックリですが。アガサ・クリスティには脱帽するしかありません。

メアリ・ウェストマコット(Mary Westmacott)名義の作品

アガサ・クリスティにはメアリ・ウェストマコット名義の小説が上記の6作あります。そのうちのひとつが「春にして君を離れ」です。

ただ、この「春にして君を離れ」はミステリではありません。心理サスペンスともいうべき作品です。

アガサ・クリスティが円熟期に発表した心理サスペンスです。オールタイムベスト10に入れるファンも多いでしょう。
1930年 愛の旋律   Tree Giant’s Bread
中村妙子訳 ハヤカワ文庫 1975
1934年 未完の肖像  Unfinished Portrait
中村妙子訳 ハヤカワ文庫 1976
1944年 春にして君を離れ  Absent in the Spring
中村妙子訳 ハヤカワNV文庫 1973
1947年 暗い抱擁  The Rose and the Yew
中村妙子訳 ハヤカワ文庫 1974
1952年 娘は娘   A Daughter’s a Daughter
中村妙子訳 ハヤカワNV文庫 1973
1956年 愛の重さ  The Burden
中村妙子訳 ハヤカワNV文庫 1973

もし、悩んでいたなら「はみだしっ子」を読もう!

また「春にして君を離れ」は早世された偉大な漫画家、三原順先生を思い起こさせます。「はみだしっ子」を未読の方には機会があれば一読をおすすめします。

2019年3月追記

三原順先生の作品と萩尾望都先生の作品はたびたび出させていただきます。当ブログでのこのカテゴリは1970年代中期~80年代バブル前の作品へのオマージュでもあるからです。てゆーか、ただの回顧ですが。

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