親指のうずき BY THE PRICKING OF THUMBS アガサ・クリスティ 深町真理子 訳

対独情報戦での死闘から27年後、1968年英国病が蔓延したイギリス。鉛管工の技術があれば二人でたんまり稼げたのに、と冒頭あいかわらず金の話です。しかしトミーとタペンスはもはや初老で子供たちも独立しました。もうやることは老人ホームにエイダ叔母さんを見舞うだけ?いやここから本番です。

「親指のうずき」のあらすじ

トミーのエイダ叔母さんのお見舞いに訪れるふたり。

しかしボケ状態のエイダ叔母さんにはタペンスは商売女と目され邪険にあつかわれます。もちろんそんなことで気分を損ねるタペンスではありません。

ひとり外で待機していたタペンスはそのおりひとりの老婆とことばをかわします。

彼女、ランカスター夫人から奇怪な子どもの死を暗示する話を聞かされたタペンスはいぶかしく感じます。

その後ランカスター夫人は精神に異常をきたしていると職員から説明を受け納得、トミーとともにタペンスは老人ホームをあとにします。

しばらくしてエイダ叔母さんが亡くなり遺品を引き取りにトミーとともにタペンスは老人ホームを再訪します。

エイダ叔母さんの遺品の処分を検討していたふたりの前にあらわれた一枚の絵。

タペンスはその絵に惹かれます。

その絵に描かれた運河の家にはタペンスはどこかで見おぼえがあったからです。

偶然にもその絵はエイダ叔母さんにあのランカスター夫人から贈られたものでした。

絵に惹かれ興味を抱いたタペンスはその絵を譲り受ける許可を得ようとランカスター夫人の所在を職員にたずねます。

しかしあれからランカスター夫人は慌しく親族に引き取られもうこの老人ホームにはいないと聞かされます。

その後ランカスター夫人の行方を調べたタペンスですが行方はようとしてわかりません。

その成り行きに不自然さを感じたタペンスは留守中勝手に動かないとのトミーとの約束をあっさり破って独自の調査を開始します。

ま、ここはいつもですが。

タペンスはエイダ叔母さんがその老婆から譲り受けた一枚の絵を持ってトミーが憮然とつぶやく「トーマス・ベレズフォード夫人の探索の旅」に出かけたのです。

「トミーとタペンス」のコンビ、この時点でデビュー46年です。

前作「NかMか」(41年)からも27年、「おしどり探偵」(29年)から39年、そしてデビュー作「秘密機関」(22年)からから46年。

トミーとタペンスの「青年冒険者協会」「明快探偵事務所」「秘密の館スパイ戦」と変遷していまはただの初老夫婦ものに過ぎません。

いえ、そんなことはありません。

今回はタペンスが私立探偵プルーデンス・ベレズフォードになります。

タペンスというよりプルーデンス。家族が誰も呼ばなくてもプルーデンス。

シブイ初老の女性私立探偵です。

ミステリマニア、クリスティはこれがやりたかったのでしょうか。

イギリスの都会と農村を舞台にした現代風の私立探偵小説でありスリラーであり社会風刺ミステリです。

「親指のうずき」の時代背景

「ハロウィーン・パーティ」(69年)も合わせてご覧ください。

1968年前後のイギリス。

いうまでもなく英国病がいたるところで蔓延して公共のサービスが機能していません。

どんどん酷くなっていって最終作「運命の裏木戸」(73年)では電気屋がまたあとで来ますといって二度とあらわれないイギリスの社会状況が描写されます。

クリスティはこの作品ではタペンスに「どうしてわたしたち、鉛管工事を習っておかなかったのかしら」といわしめています。

それに対してトミーには「きわめて近視眼的だったってわけだ、その機会に気づかなかったとは」返させています。

元凄腕諜報部員夫婦に。

こんな国になるとは想像もつかなかったというわけです。

アリアドニ・オリヴァ夫人が活躍する長編「蒼ざめた馬」(60年)でも鉛管工のはなしが出てきます。

60年代から70年代はイギリス経済は最悪の状況です。

イギリスはお金がないのでスエズ運河、アデン(イエメンの港湾都市)から撤退です。

また北アイルランドのプロテスタント系住民とカソリック系住民の衝突が衝突します。

この北アイルランド問題はどんどん悪化していきます。

あとマリー・ベル事件というある意味当時の英国を象徴する事件が起きました。

3歳と4歳の子を10歳の女の子が殺した事件です。親からも社会からも見捨てられた子どもが起こした事件です。福祉に重点をおいていた国であるのに。

この時代の漠然とした社会的な不安はポワロとオリヴァ夫人の活躍する「ハロウィーン・パーティ」(69年)にも陰を落としています。

ビートルズの作ったアップルレーベルから初のレコード「ヘイ・ジュード」が発売になりました。

イギリスの文化はクロスオーバーして未来のシーンをリードしていきます。

また古き良きイギリスの文化も見直されていきます。

【プライベートアイ】プルーデンス・ベレズフォード【私立探偵】

この時点でサラ・パレツキーのV・I・ウォーショースキーを先んじること14年、タペンスがデビューしてからだと60年になりますね。

初老の女性探偵プルーデンス・ベレズフォード。旧姓カウリー。髪は黒。愛称はタペンス。

第一次第二次世界大戦とふたつの大戦の従軍経験者。

第一次大戦ではおもに看護師として活躍。当時より自動車の運転に長けている。

大戦後、十代で「ジェーン・フィン事件」と呼ばれるイギリス情報部の案件をトーマス・ベレズフォードとともに解決。事件解決後、ベレズフォードと結婚。

その後国際謀略事件「16号事件」に夫トーマスとともにかかわり解決に導く。

以上の多大な実績によりイギリス情報部イーストハンプトン卿の全幅の信頼を得る。

第二次大戦中にそのイーストハンプトン卿の推薦を受け、対独第五列諜報戦「無憂荘事件」で大物スパイと死闘を演じてやはり夫トーマスと国難を救う。

……いやすごいキャリアです。

クリスティがもしまだ生きていたらぜひ続きを読みたかったですね。

ヴィクとタペンスが異なる点は年齢と「ヤバイ場面で年をとっているのを忘れていた」ことです。

またジョン・ル・カレの傑作エスピオナージュの主人公、ジョージ・スマイリーの女性版としてもイケたかもです。

クリスティの寿命がメトセラぐらいあれば。

スリラー?ホラー?すべてに先見性のある傑作【ネタバレ気味】

サイコスリラーでもある「親指のうずき」です。

21世紀に表面化した高齢者問題が核となっています。この問題を軸に取り巻く環境がリアリティ満載で描写されています。まったく古びていません。

いわゆる老々介護も福祉問題も想起させるのに難くないストーリーです。

しかもこれはイギリスの「ゆりかごから墓場まで」の社会政策のなかでの現実です。

のどかに見えるイギリスの田園風景に潜む狂気の側面を描いています。

肉迫していくタペンスは自分のアイデンティティに疑問を抱いていくようになります。

あまりにも問題がはっきりしないのでタペンスはすべては自分の妄想ではないかと疑うのです。

加齢によりタペンスほどのキャリアの持ち主がそう考えてしまうリアリティがコワイ。

そしてタペンスを信じる家族とアルバートのきづな。

嫁に出した娘デボラが新聞記事のタペンスの本名プルーデンスに気づいてトミーに連絡します。そこには家族のつながりがあります。

今回の事件を象徴する隠し引き出しの存在をアルバートが執拗に指摘、強引な説得にトミーが半信半疑ながら従います。このアルバートの手柄が事件を明確にします。

そこから実はモテてもいた問題性向にあったエイダ叔母さん(ヴィクトリア朝の世代)の隠していた鋭さが半分あの世のものがたりをこの世に引き寄せます。

濃いです。

年取っても読めます。若くても読めます。

ていうか読まないと損です。

「親指のうずき」のまとめ

幻想と現実のはざまのストーリーです。

タペンスのアイデンティティの旅でもあります。

「トーマス・ベレズフォード夫人の探索の旅」なのです。

幻想も現実も強力なパワーで探索者をゆさぶります。

タペンスは自分を最後まで信じきれるか。

若き日の青年冒険者協会の「トミーとタペンス」の魂が試されます。

まさにサミュエル・ウルマンの「青春」でもあるのです。

 Youth is not a time of life-it is a state of mind; it is a temper of the will,a quality of imagination, a vigor of the emotions, a predominance of courage over timidity, of the appetite for adventure over love ease.

青春とは人生のある時期を指すのではなくこころのありさまをいうのだ。強固な意思 卓越した創造力 感情のほとばしり 恐れをしりぞける勇気 易さをふり切る冒険心 このありさまを青春と呼ぶのだ・・・・・・

訳はわたしなので信用しないようにしてください。

古き良きイギリス田園巡りのイメージとしても探索の旅としても重厚なストーリーです。

くりかえしますが老若男女におすすめの偉大な作品です。

次は「運命の裏木戸」(73年)で5年後に。

この運命の裏木戸(73年)がアガサ・クリスティの最後の作品になります。

 

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