1954,55年作品。当時の国際情勢を反映したスリラーです。日本では昭和30年。ほぼ「ヒッコリー・ロードの殺人」と同時期の作品です。後年の「フランクフルトへの乗客」の雛形ともいえる内容で、逆に言うと当時いかに将来に不安を抱えていた世界であったかがうかがえます。ポワロは出ません。
「死への旅」のあらすじ
イデオロギーの対立で東西に鉄のカーテンが降ろされていた時代。西側の有力科学者が次々と謎の失踪をしていました。
英国情報部とフランス情報部はその謎を追うためにひとりの女性に協力を頼みます。彼女にZE核分裂の権威の妻を演じてもらい追跡をはじめるためです。
しかし彼女は墜落したと思える飛行機から死体として発見されます。果たしてそれは。
この「死への旅」では当時の国際情勢、緊張が色濃く反映されています。「ヒッコリー・ロードの殺人」(55年)である意味ミクロ的に若者を描きこの「死への旅」ではマクロ的にオトナの事情を描いています。
クリスティが取り上げるということは相当ヤバい時代だったのでしょう。クリスティは65歳です。
彼女からしたらもはや面白い題材の世界とはいえなくなっていたのかもしれません。来るべき将来を暗示する世界だったのでしょうか。
「死への旅」の時代背景
「死者のあやまち」(56年)「ヒッコリー・ロードの殺人」(55年)をご覧ください。
キーワードがいっぱいです。
「もはや戦後ではない」と言われたはずの時代ですが第二次大戦の印象はオトナの記憶にいまだ生々しく残っていたようです。
リアルオトナの事情世界は基本的に国家権力をともなったイデオロギーの対立です。
赤狩り(レッドパージ。本編では魔女狩りといわれています)、ヒトラーの消えない記憶の恐怖、そして核開発競争です。
「死者のあやまち」(56年)でアタマでっかちの優性保護を訴える原子科学者が登場してポワロと意見をかわしますが、「死への旅」ではZE核分裂の世界的権威が行方不明になります。彼は東側の思想に共鳴していたように描かれています。
「ZE核分裂」はクリスティの創造物ですがいかにもヤバ気なネーミングですね。
ロボトミーも作中出てきます。まだあった時代ですが恐怖を持って描かれています。オトナの世界は今考える以上にカオスだったのかもしれません。
また当時イギリスでも外貨の持ち出し制限があったようです。そのような描写があります。
舞台が北アフリカでヨーロッパではないですし、若者のように身一つでうろつくわけにもオトナはいきません。わたしを別にして。
ここは地の果てアルジェリア~♪リクルートしたのは・・・「カスバの女」じゃありません。
タイトルはなぜか北アフリカ舞台だと歌いたくなるのでつけました。アルジェリアはモロッコのとなりです。
クリスティは作品でかなり早い時期に飛行機を出しています。冒険心のある女性だったのでしょう。今回の舞台は北アフリカモロッコ近辺です。バーバリ人の住む旧カルタゴです。これは古すぎですか。
外貨持ち出し制限のある時代にリアルな描写がなされています。作中登場する名前は映画「カサブランカ」のイングリッド・バーグマンではなくグレタ・ガルボですが。バーグマンは映画「オリエント急行殺人事件」(74年)に出演しています。
ヒラリー・クレイヴェンという女子
この「死への旅」の主人公ヒラリー・クレイヴェンを語るなら「フランクフルトの乗客」(70年)の主要人物サー・スタフォード・ナイがパンクスだとしたら知的なニヒリストだといえるでしょう。
ヒラリー・クレイヴェンは絶望している自殺志願者です。
家族と家庭を失い自分のこころを失った女性として登場します。現在は自暴自棄ですが、本来強靭な知性と意思を合わせ持つ女性です。
ただのメンヘラーではありません。自殺をしようとクスリを飲む寸前で英国情報部員ジェソップにスパイとしてリクルートされます。そこから彼女の「復活の旅」が始まります。
当初彼女の心境は司馬遷の史記「刺客列伝」に登場する荊軻(けいか)のようです。荊軻は毒塗りのオプション付き匕首(あいくち)一本呑んで始皇帝暗殺に赴きます。
「風ショウショウとして易水寒し。壮士一たび去りて復た還らず」
でもこれではロンドンに元ダンナを殺(と)りにいくみたいですね。
もしくはヒラリー・クレイヴェンは孫子の兵法でいうところの死間(死地に赴く諜報部員)の立場であるともいえます。ムカシのTVなら隠密同心、今ならミッション・インポッシブルですか。死して屍(しかばね)拾うものなし。
急造の臨時スパイ、ヒラリー・クレイヴェンはただの赤毛の元主婦なだけなんですが。スゴイですね。
このヒラリー・クレイヴェンタイプの女性はクリスティ作品では珍しい部類に属するのではないでしょうか。
「フランクフルトへの乗客」(70年)メアリー・アン、「ホロー荘の殺人」(46年)のヘンリエッタタイプです。
憂いを含んでいるような印象を受けるこのタイプの女性はきわめて魅力的ですが、クリスティの作品では残念ながらあまり主要人物としては登場しないようです。
特に冒険小説系ではタペンスタイプが活躍しているのではないでしょうか。
たとえば「バクダットの秘密」のヴィクトリア・ジョーンズです。タフで前向き、死神とも陽気にワルツを踊りますがウインクは決してしません。彼女らは鬼神も退く烈女子です。
いずれにしろ英国情報部員ジェソップ氏は慧眼でした。良い仕事をしました。クリスティ作品ではレアなキャラであるヒラリー・クレイヴェンに眼をつけた彼の手腕は評価されてしかるべきといえるでしょう。
西側と東側
スパイ戦が主要な謎になる作品に「複数の時計」(63年)があります。このミステリではポワロが登場して語り手のひとり若い諜報部員コリン・ラムにミステリ観とウンチクを語ります。ここまではイイカンジです。
余談ですが、次作「第三の女」(66年)ではそれらをまとめたものを朝食時推敲していてポワロは災厄に遭います。
すぐあとポワロは「探偵がこんなじいさんだったとは!」と妙齢の女子に言われショックを受けるのです。これはショックを受けます。
そしてこの「死への旅」では西側情報部は組織としては裏をかかれるようなダメ組織です。が、英国情報部は007シリーズでもわかるように現場の人間がトリプルAです。「複数の時計」(63年)のコリン・ラムもジミに足で調査をして事件の本質に迫りますから。
ある意味機転の利く人物を見つけ出すのが英国情報部としての仕事なのかもしれません。日本とは違う部分でしょう。
イギリスは兵器もひとひねりある橋梁戦車や状況に特化したものが多いですから。
これは植民地が豊富だったこともあり情報が多いのでしょう。やはり大英帝国は侮れませんね。東側のワルシャワ機構はすぐ暗殺するイメージです。コワイです。
でも今回恐ろしいのはまだ色々あります。
「死への旅」のまとめ
ところでマドモアゼル・ジャンヌ・マリコの性生活の変化とはなんなんでしょうね。そしてなぜわざわざ本編から退場とクリスティは記述したんでしょう。ミステリです。
クリーン・フッド運動というのが当時あったようです。
食品などの品物をむき出しで販売せずセロファンで包んで陳列する運動らしいです。衛生的なんでしょう。これは販売店が当時かなり非衛生的な環境だったとも言い換えられます。今なら余計な包装はノーサンキューですから時代は変化しました。
ヴィシー鉱泉水は映画「カサブランカ」でも有名なミネラルウォーターです。ファシストにこびる政権を暗示していました。ヒラリー・クレイヴェンは冒頭この水で睡眠薬自殺を図ろうとします。
「死への旅」は絶望のチャレンジャー、ヒラリー・クレイヴェンの再生のものがたりです。
クリスティは一度は絶望に落ちた女性を閉塞的な状況下に送り込み、そこで希望を持ち続ける勇気を持つことにより再生するストーリーをヒラリー・クレイヴェンをとおして描きました。
彼女は見事やり遂げ再びチャンスを手に入れました。彼女もまたクリスティ作品に登場するその他の女子同様ガッツがありました。彼女に祝福あれとエールを送りたいですね。
クリスティ作品はまさしくアズ・タイム・ゴーズバイです。いつの時代も輝きは失いません。