複数の時計 THE CLOCKS アガサ・クリスティ 橋本福夫 訳

1963年冷戦真っ只中の作品です。ミステリとエスピオナージュの一粒で二度おいしい内容です。クリスティは73歳くらいのはずですが、作品は若々しく驚嘆するばかりです。混乱気味の若手の聞き込みからポワロは対比するようにストレートに謎を解きます。おそるべし、クリスティ。

「複数の時計」のあらすじ

客からの指名でタイピスト事務所から二十歳そこそこのシェイラが訪れた家で待っていたのは依頼人ではなく見知らぬ男の死体でした。

驚き叫び声をあげ飛び出したシェイラは若い男性とぶつかります。

恐慌状態の彼女を受け止めたその男性は海生物学者でした。

しかし実体はその肩書きを隠れみのとした英国情報部のコリン・ラムでした。彼は東側の諜報員を捜査中だったのです。

殺人の起きた新月(クレスント)通りの一角をコリンと旧知のディック・ハードキャッスル刑事は聞き込みを開始します。

とても70歳を過ぎた作家が書いたとは思えない小説です。

事務所に雇われたタイピストは全員20代ですし、刑事とMI6のコンビもまだ若々しく活発です。

ヒールのピンが折れたとタイピストは嘆き、コーヒーとサンドイッチを食べ彼女は君好みの女性だからな、と刑事は軽口をたたきます。

内容は新月(クレスント)通りの現場一角の聞き込み捜査が中心となりますがかれらの視点、とくにコリン・ラムの視点で語られるのでタイクツしません。

クリスティはとにかく風俗をよく観察しています。

とくにワーキングガールの本質をよく理解していると思います。自分がかつてそうだったから時代の変遷でも風化しない核というべきものを生涯持ち続けたのでしょう。

「複数の時計」の時代背景

これはもうキューバ危機に代表されるデタント前の緊張状態の東西対立の構図がもろに反映されています。

ジョン・ル・カレがデビューして間もない頃だと思いますが、クリスティは彼女なりの情報部の活動を描いています。

もちろんミステリですので「複数の時計」の主題は殺人事件の解決に関するものですが、主要な語り手でもあるコリン・ラムの上司であるベック大佐はある意味英国情報部(サーカス)のスマイリーともいうべき存在です。

丹念で地味な聞き込み捜査もまるでスパイ小説のようです。英国最大の情報漏洩事件と言われる「プロヒューモ事件」が起きて国家を揺るがすスキャンダルに発展した時期でもあります。

これはカンタンにいうと当時のイギリスの陸軍大臣が関係のあった女性に機密をもらしたという事件です。

そこでとくに問題になったのはその女性は旧ソ連のスパイとも親密であったという点です。これはマズイです。時期が時期ですから。

エルキュール・ポワロ氏、ミステリを語る

今回の「複数の時計」ではポワロは文字通り安楽椅子探偵で推理します。

コリンに言った手前彼からの報告のみで問題の解決にあたります。そして本当に解決してしまうのがポワロのスゴイところですが。

さらにコリンが久しぶりに尋ねたらヒマにあかせてミステリに関してのウンチクを語りまくります。これはクリスティが語っているわけですが、やはりコナン・ドイルは別格に評価しています。

そしてやはりディクスン・カーです。そしてわれらがアリアドネ・オリヴァ夫人です。

ここのくだりは謎解きの重要なポイントを含んでいるのですが、よくクリスティは幾重にも重ねた遊びを行って作品を作れるものだと感心します。

そしてまるで枯れていないです。ムカシ黒澤明監督がビフテキみたいな映画を撮るといって撮りましたがまったクリスティはなんなんでしょうか。

後期のアガサ・クリスティのミステリはアガサ・クリスティの人間力が作品におおいかぶさっています。

「複数の時計」のまとめ

「複数の時計」はもはや伝説のポワロがロンドンのアパートから出てくる必要がないのに出てきて謎を解くという行動そのものが、東西の対立、イデオロギーの対立を浮き上がらせています。基本的にクリスティはイデオロギーは語らないのですが、人間は語ります。

当たり前ですが。ポワロもミス・マープルも犯罪を単純な善悪の一般論で語らないのがクリスティ作品の真骨頂とも言うべき点です。

今回の「複数の時計」では終盤に近づくにつれ不思議で複雑な展開を見せます。

多層構造なミステリです。何度か繰り返し読まれることをオススメします。

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