名探偵エルキュール・ポワロの作中での知名度を飛躍的に上げた作品です。どちらかというと密室系の事件へのかかわりが多いポワロですが、本作品においては動的なイメージで推理をします。今回は相棒のヘイスティングズ大尉が南米から帰国中です。1936年の有名ミステリです。
「ABC殺人事件」のあらすじ
南米の農場から用事のため一時帰国中のヘイスティングズ大尉は旧友エルキュール・ポワロの高級アパートをたずねました。
ひとしきりの会話のあと、ポワロがこれをどう思うかと彼に差し出した手紙の内容は興味深いというにはあまりにも剣呑な文面でした。
そして数日後ヘイスティングズ大尉はジャップ警部から殺人事件があったことを聞き及ぶのです。
「あのABC事件を解決したポワロさんですか」とこの後さまざまな作品で語られるポワロにとっては記念碑ともいえる事件です。不謹慎ですが。
事件はABC鉄道ガイドブックを小道具に使う異常心理者の無差別殺人事件として対策本部までおかれます。
ポワロもこの事件ではさすがに迷路にはまり込みそうになります。しかしヘイスティングズ大尉がいい味を出してポワロをサポートするつもりもなくサポートします。
「ABC殺人事件」の時代背景
1936年です。
この年「メソポタミア殺人事件」と「ひらいたトランプ」(36年)が出版されています。三作品ともに有名なミステリですね。アガサ・クリスティがイチバン筆力があった時期です。
時代背景は「ひらいたトランプ」(36年)を参照してください。
国際的にはやはり第一次世界大戦後の1919年ベルサイユ条約でのドイツへのペナルティの過酷さからのナチスの台頭、拡大という世界史の流れの中イギリスは迷路にいます。
しかし、欧州の腹芸の外交というのは局所的には正解のようですが自国の国益を考えすぎて大局を見失いひいては世界的な大問題に発展させてしまいますね。
当時の世界はたしかにせまいからやむを得ませんが。欧州とアメリカ合衆国の地球です。アジアは日本も含めて土人です。
「ABC殺人事件」と同時期の「ひらいたトランプ」での日本のイメージでもわかります。
男たちのバラード・・・またはハゲ談義
終わってますな。まだ、事件が発生してもいないのに。
年をとればまず旧友に会うと健康の話か天気の話です。そして英国紳士は事件よりハゲ談義です。クリスティは容赦ありませんね。さすがミステリの女王です。
ポワロとヘイスティングズは旧交を温めつつもお互いの老化をさりげなく確認しあいます。ポワロの髪色に変化がないミステリはすぐ暴かれます。
話題はポワロのトレードマークの口ひげにまで及びます。
そしてまだ第一の殺人が発生せずポワロ宅を表敬訪問、ジャップ警部が登場すると繊細でおしゃれなヘイスティングズ大尉はムカつきっぱなしです。お気の毒に。
断定口調の話の流れのなか、アタマのてっぺんが心細くなりましたかといわれます。
こんながさつな男が気づくはずないと思っていたのに、かといって反駁するのもおとなげないとヘイスティングズ大尉はぐっと飲み込みます。
ポワロはますます難事件解決で若返ってヘアトニックの広告塔のようだ、そのうち自分が殺された事件も捜査しかねませんな。がははは。
ジャップ警部のはなしはまるで落語の「粗忽長屋」のポワロ版のようです。
ヘイスティングズ大尉はどこがおもしろいのだがさつなヤツめが、と腹の中ではおもっていましたが顔にもでていたようで、ジャップ警部は話題を本題の事件に持っていきます。
なにも起こっていないと。笑いながらジャップ警部が引き上げていってもヘイスティングズ大尉は怒りが収まりません。
ジャップのやつめ。
南米の農場は暑いからハゲてもしょうがないんだ。
帰国のおりには特製ヘアトニックを持って帰ろう。
ヘイスティングズ大尉の今回の最大案件は育毛系だったのかもしれません。
たまの帰国なのにムカツクやつばかり。付き合い方のABC
例外はグレン警部だけですか。
ヘイスティングズ大尉はポワロが変人だと思われるたびに義憤にかられます。いい男です。しかしポワロは変人です。間違いありません。
二番目の被害者が美人かどうかとポワロがクローム警部に尋ねるとあからさまにこれだから外国人は!と思われるのがしゃくにさわります。
クリスティは当時の(もしくは現在も?)イギリス人のうわべだけの上品さを皮肉を込めて描写します。
クリスティの作品は島国根性をとくに揶揄することが多いのですがこれは発掘調査にかかわったり戦争へ看護師として志願したりとクリスティ自身の行動が通常のイギリス人よりアクティブな一面があるからでしょう。
キプリングの小説もよく出てきますし。見識があるのです。
われらがヘイスティングズ大尉もまたそうです。
そしてピュアな人物です。ポワロが無二の友人だと思うのも理解できます。
それでもポワロはヘイスティングズ大尉には君はなぜそうも考えなしでかばんに荷物を詰めるのかねとツッコミをいれるのを忘れません。
かばんのヘアシャンプーのビンが割れたらパジャマがどうなるか想像つかないのかね。
男ふたりで彼らはいい歳してなにをやっているのですか。
「ABC殺人事件」のまとめ
今回の「ABC殺人事件」は非常に身勝手な事件です。まったく関係ない見立て殺人事件を装った陰惨な事件です。
さすがにポワロも激怒といってもいいくらいの怒りかたでしめくくります。また、「ひらいたトランプ」(36年)でもあったようなへんな知り合いを登場させます。さすが変人ですね。善悪の垣根がありません。
「メソポタミア殺人事件」(36年)でもヤバイ博打を打っています。それを記述者の看護師エイミー・レザランにあきれられています。
ちなみに1936年にクリスティは「ABC殺人事件」「メソポタミア殺人事件」「開いたトランプ」の三作を発表していてどれも傑作です。ただ「メソポタミア殺人事件」の事件発生は「オリエント急行の殺人」(34年)前となっています。
アガサ・クリスティのポワロもののなかでも大掛かりな映画のような「ABC殺人事件」です。
最終舞台は例によってデヴォン州になります。犯人の挑戦を受けて見事に男ふたりはキツネを仕留めます。
ナイスコンビですね。溜飲が下がります。