1938年の年末の血まみれ殺人事件です。血のクリスマスはもはやクリスマスとはいえません。ジョンスン大佐と薪かセントラルヒーティングかの暖房談義をしていて毒薬より単純な荒っぽい事件がいいと大佐が言い出したら電話が鳴りクリスマスは台無しです。そう。ポワロの出番です。
「ポアロのクリスマス」のあらすじ
ダイヤモンドで財をなした大富豪シメオン・リーが子孫の一族全員をクリスマスに邸宅に集めます。彼を嫌って絶縁状態の息子、放蕩息子もすべての子孫を集めます。
その館はゴーストン館。
不審がる息子達の思惑をよそにシメオンが考えていたクリスマスはきわめて悪趣味なクリスマスでした。
そしてそのクリスマスをまたずシメオンは殺されます。それはポワロのクリスマス休暇もなくなったことを意味していました。
ポワロは商売繁盛でいいです。ともいっていられません。大量の血が流れた事件です。現場は凄惨をきわめていました。
しかし父親のむごい死体をまえに「神のヒキウスはまわるのがのろいが・・・」とことわざをつぶやく息子に「あの年寄りが、あんなにたくさんの血をもっているとは誰が考えたろう?」とシェイクスピアをそらんじる長男の嫁という多彩な顔ぶれの家族です。
さすが大英帝国ヴィクトリア朝の教養はいまだ健在なりと言えなくもありません。
誰も親父のことを考えていない家族です。しかし当主も自分の暇つぶしのため憎みあう家族を集めるというある意味自業自得の彼への最後のクリスマスプレゼントです。まあ、普通に考えて神の鉄槌かもですね。
で、今回罰としてツリーとケーキはナシです。
「ポアロのクリスマス」の時代背景
「死との約束」(38年)「ナイルに死す」(37年)をご覧ください。
冒頭「ポアロのクリスマス」ではピラール・エストバスの口から当時のスペインの状況が語られます。さらに本編中にも戦争の話題に触れられます。
フランコ政権が実権をにぎっており共和国軍との激戦にも決着が着きかけていました。
この年のクリスマス前に「ノー・パサラン!(やつらを通すな!)」の掛け声もむなしく多大なる人的消耗を強いられながら激戦を戦い抜いた伝説の国際旅団(外国人義勇兵部隊)は解散しています。(1938年10月)
ナチスの台頭をうながし、第二次大戦はもう始まっていたと考えれられる状況です。ヨーロッパの国家芸ともいえる得意の腹芸は結局ドイツには通じませんでした。
昭和13年です。上海娘、李香蘭(故山口淑子元参議院)が銀幕デビューです。
一般的にはもはやクリスマスとはいえない状況である
しかしヴィクトリア朝の教養が邪魔します。短編集の「クリスマスプディングの冒険」ではクリスマス風に描かれていますからそれまで待ちましょう。わたし達のクリスマスは22年後です。
ふたりの男女が列車で出会います。エキゾチックなふたりはくすんだイギリス人のようにクライ人種とは違います。
スポットライトがそこだけ当たっているようです。日向の匂いがします。互いにそう感じています。
そのふたりが向かうのはゴーストン館。真っ暗です。お気の毒としか言いようがありません。
ゴーストン館では闇が渦巻いています。ハッピークリスマスとは程遠い状況です。一番の問題は子どもが登場しないのです。
わたしはお呼ばれしてもお泊りはしないでしょう。サンタのプレゼント名簿に記載されていないうちだろうからです。靴下がむだになります。
しかもけっこうな館なのにキッチンメイドもいなくて男の執事がふたりです。
うちひとりはポワロにも「あの男は人のウワサを集めて歩くようなタイプだから離れたほうがよい」といわせる人物です。
給仕は何度注意してもやらかす低脳が疑われるこれまた男です。まったく華がありません。まあ、ゴーストン館ですからね。
マザコン気味のアーチストの息子はクリスマスだというのに葬送行進曲をピアノで弾き教養を披露します。
当主であるシメオン・リー氏は若い頃パワーに任せて女性関係で放蕩をやらかして妻を悲しませていました。何人子どもがいるか判らない状態です。いやはやまったくです。
彼は双極性の障害があるのかもしれません。困ったお人です。
しかしポワロにはクリスマスである。
この探偵にはクリスマスプレゼントが当たりましたね。もちろん血まみれ事件の謎解きではありません。これは彼には稚戯にも等しいでしょうから。
このエルキュール・ポワロ氏は教養ある熟女がお好きなようです。ポワロからしたら各夫人たちはそれほどの年齢ではないかもしれません。娘っこなのかもしれません。
血まみれ殺人事件の現場での彼の研究題目のひとつはリー兄弟たちの嫁さんです。
長男の嫁で死亡現場でマクベスをそらんじたリディアには理解力とグレイハウンド的優美さを。守銭奴の弟の嫁マグダリーンからは娼婦的な態度と美しさを。マザコン男の嫁ヒルダからは充実した、気持ちのよい力強さを。ポワロ氏は灰色の脳細胞をフル回転させて感じとり見とれます。本人もそれを認めるのにやぶさかではないようです。
嫁さん達は全員ポワロのストライクゾーンのようです。
このひと殺人現場に慣れすぎですね。むかし医学生の方がはじめて入った解剖室で「飲食厳禁」の張り紙に驚いたと言っていたのを思い出します。
こんなところでメシなんか食べられるかと。
しかし半年もすると解剖にも慣れてジャムパンを食べている自分に気づいたそうです。不謹慎というか慣れとはそういうものかと思いますね。
しかしポワロの中の人アガサ・クリスティは女性でまだ48歳です。どうなっているのでしょうか。
特にヒルダ・リー夫人に対しては我らが名探偵氏は独特の肉体的魅力を感じているようです。「すこしずんぐりした顔についているおちついた淡褐色の眼は、親切の灯火のようにかがいていた」そうです。
いい趣味です。わたしとは少し異なるようですけど。
このような趣味を持つ方はひとり知っていました。女性の好みが下半身の腰まわりとふとももに集約されていました。良い子供を生めるかどうかが彼の女性の判断基準でした。
ブリーダーでしたのでわたしは犬も人も同じかい!と引いていましたがヴィクトリア朝の人もそうなのかもしれません。
でも中の人クリスティはスゴイですね。完全男目線です。しかもこのポワロの女性の好みは生涯揺るぎませんから。
でもポワロはリディア・リー夫人を賛美してややキモがられているようです。これは仕方ないですね。男の価値がわからない女性です。いや、彼女の気持ちが正しいか。気の毒に。
でも永遠の女神ラザコフ伯爵夫人がポワロにはいますから。ある意味健康な年増好きです。
「ポアロのクリスマス」のまとめ
焼いた干し葡萄、ユール・ロック(クリスマス前夜に焚く大薪)、プラムプディング。あと白ワインかポートワイン。
まったくつまらないクリスマスです。ケーキも何もナシです。おまけに遺言状の書き換えがおこなわれていなかったのでちょっとした骨肉の争いです。
でもポワロには酒池肉林のクリスマスです。いや眼の保養のクリスマスというべきですか。女っ気ナシですからね。普段は。このミステリは「ポアロだけのクリスマス」です。
また「クリスマス・プディングの冒険」で再度語りますがセントラルヒーティングが冬のポワロの必需品です。暖炉だの薪だのの形式よりポワロは実をとります。本編ラストでもその件を述べます。
今回ジョンスン大佐とポワロはカートライト事件を思い出して話します。(「三幕の殺人」(34年))
この「ポアロのクリスマス」は「ナイルに死す」(37年)「死との約束」(38年)のアジアアフリカ漫遊あとに生じた事件です。
「ポアロのクリスマス」はミステリとしてはきわめてオーソドックスでおどろおどろしく横溝正史先生に影響を与えたミステリ作家アガサ・クリスティを堪能できる素晴らしい作品です。
犬神家の一族や獄門島の世界です。悪意のある当主が呼び集めた息子たちと個性的で魅力的な嫁。そして血まみれのクリスマス。日本の作家が影響を受けたのもうなずけます。
オススメいたします。