古都エルサレムからペトラ遺跡、死海、ヨルダンのアンマンなど中東を舞台にしたミステリです。1988年「死海殺人事件」として映画化されました。ローレン・バコールが出演しています。原作は1938年に出版されました。臨場感あふれるミステリです。ポワロは時間の整合性に注視してアメリカ人家族を救済します。
「死との約束」のあらすじ
ポワロは中東を旅行中でした。
訪れた古都エルサレムの最初の夜ふとした会話を耳にします。
その会話の内容ははなはだ不穏な空気を漂わせたものでした。
そしてポワロはヨルダンの首都アンマンでレイス大佐の旧知の友人カーバリ大佐に旅行中のアメリカ人の老婆の不審死の調査を頼まれます。
彼女は家族の独裁者であり一家を牛耳っていたため恨みをもった家族のだれかが殺した疑いがあるというのです。
その一家の名前を聞いてポワロはエルサレムの夜聞いた会話を思い出すのです。彼女を殺してしまわなきゃいけないんだよ・・・。
中東を旅行中、事件に巻き込まれる名探偵ポワロです。
休むひまなく事件にとりかかり聞き取り調査からいつわりの死亡時間を看破していく姿はさすがポワロです。
今回はいま風でいうところの「毒親」の物語です。
ミステリというカテゴリですがホラーというカテゴリでもいいのではないかと思うくらいコワイ内容です。
作品は閉鎖的なアメリカ人一家の奇怪な家族関係が女医サラー・キングによって糾弾されつつもどうにもならない現実を浮き彫りにします。
現代でも普通にありうるミステリです。
「死との約束」の時代背景
1938年。第二次世界大戦前夜です。
ナチスドイツがすさまじい勢いでヨーロッパを席巻するのは目前でした。チェコスロバキア以外は領土拡大をおこなわないとヒトラーと協定をむすぶミュンヘン会談が持たれた年です。
「死との約束」でもリトアニアの国境紛争のはなしや国際連盟支持の議員のはなしなどが出てくるなどまだ本格的な戦争状態にはなっていないにしろ、戦争は必然でした。
またアメリカは不況の真っ只中です。
そのため手に職もないボイントン家のひとびとは温室で独裁者ボイントン夫人に生殺しで飼われているような状態です。
いうまでもなくイギリスは不況です。
とっくに金本位制も投げ捨てていたくらいです。ナチスと戦争するにもお金もありませんでした。
世界中が手詰まりでいわゆる「詰んだ」状態です。
あとは戦争まで一瀉千里(いっしゃせんり)だったのは歴史の必然だったのかもしれません。
ボイントン家は他人事ではありません
よく耳に入ることばになってしまいました。毒親。
イヤな響きですよね。
ボイントン一族は毒親に生きながら養分を吸われ続けている状態です。
唯一マインドコントロールを受けていない長男の嫁ネィディーンも看護学校を中退したような中地半端な資格のため大不況当時のアメリカでは自立しての生活は難しいありさまです。
またそういう行動をコントロールしやすい女性を長男の嫁に据えるところが毒親である被害者の恐ろしいところです。
ボイントン夫人はイイ年した連れ子をコントロール下に置いた上に実の娘を精神崩壊にまで追い込んでいるんですから。まさにホラーです。
このミステリでは医者が多数登場するので分析してくれるのでありがたいです。
が、現実はそこかしこにあるマインドコントロール下のグループに素人が「これはおかしいのではないか」と意見しようものならタイヘンな事態になります。
「死との約束」は勉強になるミステリです。
でもこれはボイントン家だけの問題ではありません。
このようなマインドコントロールされた関係のコミュニティは上記にも書いたように過去から現在にいたるまでどこにでもあります。
会社のなかにもママ友仲間にも学校の中にも。
むしろネットで結ばれた現在はボイントン家のようなコミュニティのほうが多いかもしれません。
「女は自分がされたことを次の相手の女にするんだよ」というはなしをどこかで聞いた気がします。「嫁姑はそれが続くんだよ。それが女のサガなんだよねえ」とかいっていたような。
いやいやそれ女性だけじゃないから。誰でもするから。老若男女問いませんから。
しかしその連鎖をとめる勇気を持つひともまた存在します。
圧倒的に少ないですけど。
すごい精神力勝負の世界になってきますからタイヘンです。
並みの胆力では妄想の権化のような人物とは渡り合えません。
そのうえ相手がボイントン夫人のような頭脳明晰な人物であったらなおさらです。
あんな元看守が「悪魔の毒々モンスター」化していたらたまりません。私なら腰が抜けます。
いくらサラー・キング先生が専門知識と若いパワーを武器に頑張っても難しいでしょう。
とくに彼女は部外者ですからね。まわりのコントロール慣れした連中は救い出せないでしょう。
しかもこの手の毒人間は相手にしてもリターンがないのが普通です。仮にボイントン夫人をだれかが完膚なきまでに叩き潰したとしても彼女は妄想世界にいつづけますから。
叩いたほうが疲れて罪悪感を感じるだけです。これは困った存在です。気にしないのが一番ですが現実を牛耳られていたら困りますね。どうしようかしら。
「死との約束」のまとめ
今回の事件は間に合いました。被害者は間に合いませんでしたが。
途中レイモンド・ボイントンがサラー先生に自分は母親から離れたら君にお金を借りなければいけないという告白をします。
サラー先生は「あなたがリアリストなのが嬉しいわ」とのんきに答えますが、レイモンドはお金返せるのでしょうか。他人事ながら私は胸が苦しくなりました。
今回レイス大佐が話題のシャスタナ事件(2年前)(開いたトランプ)、オリエント急行の顛末のうわさ(4年前)、(オリエント急行の殺人)、ABC事件のポワロさん(2年前)、(ABC殺人事件) といろいろ出てきます。ポワロの名声は頂点にあるかのようです。
まだまだこれからですが。
ラスト、五年後のボイントン一家の様子が描かれています。ジニー・ボイントンの晴れ舞台、ハムレット公演の場です。精神崩壊寸前で救われたジニーがオフィーリアを演じています。
「乾杯するのですか?」とポワロにたずねられたサラー・キング先生は初めて気づきます。ジニーとその母が似ていることを。
ただ違いがあるのです。
ジニーは陽性で「彼女」と呼ばれるボイントン夫人が陰性であることです。
被害者である母親の名を口にするのははばかれるようです。家族から意識的にハブられてるというべきか。
「シンベリン」(シェイクスピア作)の一節をジニーが口ずさみます。
太陽の熱も恐れず、
きびしい冬の嵐にもひるまず、
畢生の業(ひっせいのぎょう:一生涯の業績)を成し遂げた汝は、
家庭を失いて、その報いを得たり……
この歌は「シンベリン」のヒロイン、イモージェンの葬送の歌です。まあ、彼女は仮死状態なんですが。
「死との約束」は大変コワイはなしです。でも読後感もよい、現代にも通じる素晴らしいミステリです。
おすすめします。