ふたりの合言葉は復讐の女神。ミス・マープルとラフィール氏、一期一会の友情の物語。1964年作品。互いに敬意を表し人間力を認め合った達人男女はこの事件以降二度と会うことはありません。しかしその信頼関係は最終作品「復讐の女神」でも一度も揺らぐことはありませんでした。
「カリブ海の秘密」のあらすじ
甥の作家レイモンドからの好意でカリブ海のホテルに滞在中のミス・マープルはセント・メアリ・ミードと同じように老人の話に耳を傾けていました。
その老人パルグレイヴ少佐がひまにまかせて語った殺人事件は老人特有の記憶の入り混じった創作話に思えていたのですが、翌日その老少佐は死体となって発見されます。
それはただの事故死か病死に思えました。
しかしミス・マープルは腑に落ちないなにかを感じて・・・。
ミス・マープルの人間力を同格かそれ以上と認める気難しいラフイール氏はミス・マープルが認め頼った唯一の民間の男性です。
ミス・マープルシリーズでもきわめて重要なキーとなる三部作の第一作目「カリブ海の秘密」。
西インド諸島のリゾートホテルで邂逅したふたりははた目にはただのひ弱な老婆と全身不随の余命が尽きようとしている気難しい老人に過ぎません。
しかしそのふたりの意思と頭脳がひとたび決断と行動を起こしたら鮮烈な輝きを放ち読者に印象づけるでしょう。
周囲にくらべあきらかにこのふたりは別の世界の住人です。
全幅の信頼を寄せられるラフィール氏のちからを得て物語のラスト、復讐の女神と化したミス・マープルは凶悪な犯罪現場に舞い降ります。
「カリブ海の秘密」の時代背景
文化的な背景の詳細は「バートラム・ホテルにて」(65年)をご覧ください。
この「カリブ海の秘密」はキューバとアメリカの対立、いわゆるキューバ危機すぐ、ケネディ暗殺直前か直後です。
戦勝国であるアメリカ、イギリスの公民権運動や社会文化の変容はグローバル化しつつある世界でNATOとワルシャワ条約機構との冷戦対立構図を変容させていきます。
また敗戦国である日本は東京オリンピック、東海道新幹線開通にわき西ドイツは第一次大戦につづき多額の賠償金支払いにもかかわらず奇跡の経済成長を遂げようとしている真っ最中です。
A BOY MEETS A GIRL
冒頭、甥のレイモンドから送られた本を開きながらミス・マープルは昨今の恋愛の事情というか情事の描写について自分の感想をひとり思います。
まさに「カリブ海の秘密」です。
新しい風俗であり文化であると当世の若者たちが意気込んで作り上げた風俗は奥ゆかしさがあったため表にでなかった昔の文化からするとまだまだ甘いものだと。
それらのアンモラルな文化は注意深く隠されていたため無知な若者がしらないだけだと。
昔のほうが声に出すのもはばかられた想像を絶するアンモラルな世界があったのだと。
さらに付け加えるらセント・メアリ・ミードのような田舎のほうがロンドンなどの都会よりアンモラル率は高かったのだと。
やれやれ、知ったかすんな、というわけですね。
小賢しいわ、こわっぱが、ということでもあるんでしょう。
そのとおりだと思います。レイモンドに代わって謝ります。ごめんなさい。
性風俗や伝習に限らずたしかに昔のほうがより生活がプリミティブ(根源的な)な世界でしたから。
ミス・マープルが穏やかに見える田舎のほうがレイプ、近親相姦、その他(少年少女姦、獣姦、鶏姦、耐えなきゃならない舅の夜這い)などのほかにインテリの知らない言語に絶する性癖の振る舞いがあったのだとため息をつくのは本当でしょう。
ここちょっとドキドキしますが。
ただ、現在も隠されているため表沙汰になっていないだけの秘密は多いと考えるのも自然でしょうね。人間は変わりません。私も以前聞かされました。田舎で。昔のほうがヒドイと。
これらのうわさばなしをビクトリア朝の雰囲気のセント・メアリ・ミードのムカシオトナ女子達は教会のお勤めの合間にヒソヒソやっていたのでしょう。うーむ。
ムカシオトナ女子、ムカシ男子に出会う
そしてミス・マープルはラフィール氏に出会います。
出会って二回目に「おい!」と三回連呼され呼び止められ「そこのひと」とジェーン・マープルという固有名詞では呼ばれません。
さらに手なぐさみの編み物を取りだすとオンナの編み物はイラつくからよせ、とか言われます。アンタ、私の亭主かよ、て感じですね。
そのさいミス・マープルは権利を振りかざさず真の女子力を発揮して編み物を素直にしまいます。バカにしたわけではありません。卑屈になって従ったわけでもありません。
ビクトリア朝時代の女子力巡航運転です。なにも問題はありません。ほんとうに優れたちからは一見、受身的に見えます。
そしてまたラフィール氏もそこからのミス・マープルの立ち居振る舞いで即座に彼女の非凡さを見抜きます。
このくだりの説明は文章ではあまり描写されていないのでラフィール氏が「あんたという人を見そこなっていた(あんたはスゴイ!)」というセリフは唐突にでてきた感じがします。
まだふたりは何気ない会話しかしていないからです。
しかし、ラフィール氏が女性蔑視とも思える無作法な言い回しで事件への考えをミス・マープルに尋ねても冷静に自身の所見を述べるに至って彼女は大変な人物だと気づき自分の誤りを認めるのです。
ラフィール氏はどこかわざとそう振る舞っているフシがあります。
ミス・マープルはそんなラフィール氏の本質を会話ですばやく見抜きさらにそのようなムカシ男子へ対処するスキルを心得ていました。
それはミス・マープルの実力を知らないラフィール氏にあんたは殺人事件の経験が豊富なようには見えないといわれても当然、機能します。
決してムカシオトナ女子はムカシ男子に恥はかかせません。そしてミス・マープルはこの件の解決にはラフィール氏のちからが必要だと素直に頼ります。
ラフィール氏も情報にゆらぎ自分の推理に確信を持てないでいるミス・マープルに自信をもちなさいと励まします。
この永遠の瞬間ともいうべき短い時間にふたりは何かを感じたのでしょう。
それは今生において同格の人間に出会えたという堅い絆ともいうべきものです。
これは「復讐の女神」(71年)でミス・マープルが全幅の信頼をおいてもうこの世にいないラフィール氏の求めに応じてアクションを起こし、ラフィール氏に夜ひとり語りかける姿でもわかります。
まさに「カリブ海の秘密」のこのシーンは剣豪同士の立合いです。これがビクトリア朝の男女の出会いの趣きですか。
ふたりの合言葉は「ネメシス(復讐の女神)」
ビクトリア朝の文化に啓蒙された達人同士の男女は一味ちがいます。
終盤、ミス・マープルは突然夜中にラフィール氏の寝室に勝手に忍び込み熟睡中のラフィール氏の肩を激しくゆさぶり、「わたしよ」と女房でもないのに気安く言って叩き起こします。
「悪魔かよ!」と眼を覚ましたラフィール氏にミス・マープルはいいます。
「私は復讐の女神(ネメシス)」と。
ここからミス・マープルの本質を描いたもっとも美しいシーンをクリスティは展開させます。
ラフィール氏はできるかぎり枕の上の上体をおこした。そしてあきれた顔で彼女をみつめた。ふんわりとした薄いピンク色のウールのスカーフで顔を包んで、月明かりの中に立っているミス・マープルは、およそ復讐の女神とは似ても似つかぬ優しい姿だった。
これがビクトリア朝の超一流の男と超一流の女の逢瀬です。
美しいシーンです。多少殺伐としてますが。
そしてラフィール氏はミス・マープルの頼みを無条件で決断して実行します。
ミス・マープルを見つめること約6秒。彼もビジネスで叩き上げた男です。
そして本質が親切な男です。つまり紳士です。ふたりの信頼と連携が物語の犯罪を未発に防ぎます。
この魂の信頼関係ともいうべき特別な絆が「カリブ海の秘密」からミス・マープルの最後の作品「復讐の女神」(71年)につながっていきます。
「カリブ海の秘密」のまとめ
「皇帝万歳、まさに死せんとするわれら、陛下に敬礼す」
最後にラフィール氏がミス・マープルにラテン語で送るセリフです。これは剣闘士が皇帝に闘いの前に誓う言葉です。
ミス・マープルはムカシオトナ女子らしく一度はラテン語には詳しくないから、と奥ゆかしく答えます。これは作法です。
しかし、ラフィール氏はもちろんミス・マープルがラテン語の教養の持ち主であるのを知っています。
知ってんだろ?アンタを尊敬するよ、と最大級の賛辞を送ったのです。
それからミス・マープルはただ「ええ」と答え「あなたとお知り合いになれてよかったですわ」といい飛行機へ向かいます。
男性に対するミス・マープルのこれまた最大級の賛辞でしょう。
まぶしいくらいカッコいいムカシ風です。
おとなの男女の作法ですね。
そしてこの「カリブ海の秘密」事件のあとふたりは二度と会う機会がありませんでした。
こんなオトナになりたいです。