葬儀を終えて AFTER THE FUNERAL アガサ・クリスティ 加島祥造 訳

1953年。戦後8年です。イギリスの「ゆりかごから墓場まで」の現実がひしひしと伝わってくるミステリです。税制が変わり戦前とは比べものにならない税金で生活が一変したひとびとの悲劇です。イギリス社会は過渡期です。適応しなくてはいけません。命の値段が下落しています。

「葬儀を終えて」のあらすじ

老舗の医療メイカーの当主が病死しました。

葬儀も終わり莫大な遺産相続も遺言どおり滞りなく終わるかと思えたまさにそのとき、空気をまったく読まない末の妹のコーラが放ったことばは一族の疑惑を生み出します。

「だって、リチャードは殺されたんでしょう?

そしてそのことばはコーラ自身に災いを招き寄せる、不可解な事件に発展していきます。

そんな、だれひとり余裕がなく気づかない人々のなか、ひとり老遺言執行人のみが誠実に職務を果たそうしようと努力します。

が、しかしこの事件は彼の手には余るものでした。

そんな彼は一本の電話を友人にかけることを決意するのです。

この時すでに、大英帝国の繁栄は影もカタチもはありません。

すこしばかり良い食べ物はほぼ配給制です。タマゴも肉もです。仕事への忠誠心も誠実さもほとんどありません。

社会は移り変わりビジネスも変化していきます。

しかし古い友人の遺言を誠実に実行するためにひとり奔走するエントウィッスル氏。

彼のまわりのやはり古き良き時代の伝統を知っている一握りのひとびとは彼を見捨てません。

荒れ放題のひとびとのこころが痛いです。

イギリスの伝統が終焉を迎えたように思える社会情勢です。

「葬儀を終えて」

クリスティはほんとうにすごいタイトルをつけます。

まさにイギリスの伝統の葬儀を終えたあとの社会を描いたミステリです。

「葬儀を終えて」の時代背景

まずポワロが外国人だからと差別を受けます。

難民や移民が多かった時代なのでしょうか。ポワロがまだ生きていたのか、と伝説の存在になりつつあるのは理解できます。

しかしすでに彼の名声を知るものも若い世代には少なくポワロは古い世代イギリス人にも差別を受けるイギリスとなってしまっています。

ポワロは慣れたものでひょうひょうと受け流しますが。

この年エリザベス女王が戴冠します。

チャーチルが第二次大戦回顧録でノーベル文学賞を受賞、さらにイギリス最高のガーター勲章も受けます。彼のノーベル賞はヘミングウェイより先です。

この時、イギリスは保守党政権下です。

労働党が推進した国営事業を民営化に戻していくべく奮闘しますが国民意識はもとには戻らなかったのでしょう。英国病が蔓延していく世の中です。

戦後の「ゆりかごから墓場まで」のベヴァレッジ計画は理想にすぎなかったのでしょうか。

スターリンが死亡し書記長がフルシチョフにかわります。米ソのスパイ戦は核開発をめぐり本格化した末に有名なローゼンバーグ夫妻が死刑になります。

ユーゴスラビアの英雄チトーが大統領にアメリカはアイゼンハワー大統領です。英雄が入れ替わります。

朝鮮戦争が休戦しますが戦いはまだ続いています。

当時の我が国、日本は後世に名を残す吉田首相の「バカヤロー解散」の時代です。

賢者は歴史から学び愚者は経験からしか学ばない

これって誰のこと?え、私?って感じですが、「葬儀を終えて」はいまだ読み続けれている風俗の歴史書といってもいいでしょう。

日本の小説ではこの手の風俗が描かれているものはもう読まれていないのではないでしょうか。源氏鶏太のサラリーマン小説の時代ですね。

映画は小津と黒澤の二大巨人が実力を発揮していました。小津安二郎の映画が当時の日本です。

モートン警視がポワロにビールを供されますが日本ならぜいたく品です。ひょっとしたらイギリスでもぜいたく品かもしれません。ポワロは金持ちですからね。

ポワロはゴビィ氏という情報屋の元締めに調査の下請けを頼みます。引退同然のゴビィ氏に頼むにはかなりのお金を積まねばなりません。必要経費といえどかなりの出費です。

ゴビィ氏はいいます。

「うちの若い連中をあちこち走らせたがね、彼らは彼らなりにベストはつくしたらしいが昔のようじゃなくてね。もちろん、今の時勢としては腕利きの連中ばかりだがーーやっぱり違うですね。昔みたいに仕事を習おうという気がない、ほんの一、二年やって、もう一人前になんでもできると思ってるんです。そのくせ時間だけはうるさくて、そう、時間ぎめで働くわけですよ、今の連中はね・・・・・」

ぐはっ。血を吐きそうになりますね。考えてみれば自分に思い当たることばかり。

「結局政府の責任ですね。教育、教育ってやかましく言ったおかげで、連中、へんてこな考えばかり持つようになって、わしのとこへ報告にきても自分の考えしかしゃべらない。そのくせろくな考えは持ち合わせてちゃいない。みんな本から借りてきた考えばかりです。それじゃわしんとこの商売にならない。調べ上げた事実を持ってくる、それだけで良いんです。考えなんてものはなんの役にも立たない」

ふう。やはり政府の責任か。私のせいじゃなかったみたい。いいところに落ち着いて今晩は安心して眠れそうです。

しかし情報屋がキュレーションサイトみたいな状態だとアテになりませんね。

一次情報をもってこい!と大金払う側ではクレームをつけるでしょう。ゴビィ氏の目が黒いうちは大丈夫そうですが。

クリスティは「葬儀のを終えて」で遷移中のイギリス社会を描いています。うつりかわりが急激すぎたのでしょう。この時期のイギリスはムチャクチャでまさに文化破壊的です。

イギリスも世知辛い世の中になりました。物資が相当不足しています。良い伝統文化が崩壊中です。相続税を払うと何にも残りません。

30年くらいまでは維持できた屋敷ももはや手放すしかありません。

ベルギー人大富豪名探偵エルキュール・ポワロは舌平目のあとミラノの子牛のエスカロープ、食後のデザートはアイスクリーム付きの焼き梨をエントウィッスル氏と食べてます。エスカロープですがミラノ風ということはカツレツですが単純な揚げ物ではありません。オリーブオイルとバターで焼いたタイプでしょう。

飲み物はプイー・フィッスのあとコールトン、そのあと上等のポートワインです。

ちなみにエスカロープとは北海道の国境の町根室市のご当地名物エスカロップと同じカツレツですね。おそらく。

コルドン・ブルーと呼ばれるチーズは入っていないタイプではないでしょうか。

でもわかりません。それと銘柄有名白ワインです。

エントウィッスル氏はポワロにどこでこんな薄切り肉を手に入れたのかとたずねるくらいです。

ポワロが解決した肉屋からの闇提供らしいですが。ポワロの人徳ですね。

これは差別されても気にならないでしょう。金持ちケンカせずです。

それに比べてイギリス人はひどい有様です。

あ、それとスインドンの駅で黒いビーズ玉をいっぱい付けた喪服の女性が食べるバスパン(バースバン)とはブリオッシュと似たタイプのイーストを使った、パンとお菓子の中間のパンです。

追記  ブリオッシュとは

2021年時点でのマリトッツオに使われているパンみたいな感じです。マリトッツオはイタリアのお菓子パンでクリーム付きですが。バスバンはざらめがかかっています。似たような生地でヴィエノワドックというのもあります。こちらフランスですね。言うまでもなく本来それぞれ全然異なるパンです。

また、冒頭マントルピースの描写がありますが、これは備え付けの暖炉の突き出た飾り部分です。

「葬儀を終えて」のまとめ

この作品ではエッジウェア卿の事件(エッジウェア卿の死)(33年)に言及されます。うーむ。20年前です。ポワロが思い出すんですね。ゴビィ氏との会話で。

あとこの「葬儀を終えて」は私のなかでクリスティ作品でこんな理由で殺されたくない作品ベスト10には入ります。

命の値段が安すぎます。

また淑女のような殺人者が新しい世代ではなく古い世代の殺人者です。うーむ。クリスティはひとすじなわではいきません。うーむが多いですね。

「葬儀を終えて」は戦後まだままだ続くイギリスの苦難のなかでのミステリです。

しかし良いトラディショナルな精神を持ち続けたひとびとは自分の職務を果たします。一部違いますが。

ていねいによく読むと「葬儀を終えて」は現在の日本の状況に対応できる箇所が散見するかもですからオトクです。

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