1925年、前年「茶色の服の男」で南アフリカの冒険譚を描いたクリスティは今度は南アフリカからイギリス本土へ男を向かわせます。舞台は外国来賓を迎える侯爵所有のチムニーズ館。ロンドン警視庁きっての慧眼の警視バトルのデビュー作です。彼は四年後のチムニーズ館「七つの時計殺人事件」でも登場します。
「チムニーズ館の秘密」のあらすじ
南アフリカで退屈な旅行エージェントを生業にしていたアンソニー・ケイドは古い友人の山師ジェイムズ・マグラスからイギリスでのふたつの仕事を請負います。
ひとつはバルカンの蛮国とも言えるヘルツォスロヴァキアの元首相の手記を出版社に届けること。アンソニーの取り分はうち25パーセント。
もうひとつはアフリカで死んだ男からゆすられていたと思われる女性へその心配はもうないと伝えること。しかしその女性の唯一のてがかりは住所とおぼしきチムニーズと書かれた手紙のみです。
有閑熟女の旅行案内人から国際謀略事件の真っ只中へ赴く機知に富み肝の据わったアンソニーは14年ぶりのロンドンでさっそく事件に巻き込まれます。
「チムニーズ館の秘密」は舞台に似合わず豪胆な冒険譚です。
王政か共和制かでゴタゴタするヘルツォスロヴァキアを国益優先で画策を狙うイギリス政府と経済界。
その外交の舞台で由緒あるチムニーズ館で起こったヘルツォスロヴァキア王子の殺人事件。
国際的な怪盗でパリの刑務所を出所したばかりの宝石泥棒キング・ヴィクター。
すべてがヘルツォスロヴァキアを指している陰謀小説です。
そしてまだ古き良きイギリスが残る華やかなストーリーを回す非常にタフな登場人物たち。
アンソニーと外交官未亡人のヴァージニア。このふたりは作品のなかでも豪胆さが際立っています。
チムニーズ館を所有するケイタラム卿の娘で次の「七つの時計殺人事件」(29年)ではヒロインを演じるアイリーン・ブレントことバンドル。
そしてロンドン警視庁のバトル警視です。彼は次の「七つの時計殺人事件」(29年)、「殺人は容易だ」(39年)、クリスティの最盛期の傑作のひとつに数えられ自選10作品のひとつでもある「ゼロ時間へ」(44年)で主役を演じています。
また「ひらいたトランプ」(36年)ではポワロとレイス大佐(前年度作品「茶色の服の男」(24年)、「ナイルに死す」(37年)、「忘られぬ死」(45年)で登場)とクリスティ後期作品で活躍するオリヴァ夫人と競演しています。
彼も国家公務員とは思えない豪胆な大男警官です。事件の解決のためには自分の見識で平然と民間人にも情報を漏洩します。
クリスティの作品中でも複数のキャラクターがここまで豪胆な作品は第二次大戦後すぐ復員期の事件「満潮に乗って」(48年)、「フランクフルトへの乗客」(70年)くらいではないでしょうか。
ヒロインの肝が据わっているのはミス・マープルふくめクリスティ作品の特徴ではありますが男女複数がアウトローなのは新鮮です。
「チムニーズ館の秘密」の時代背景
「茶色の服の男」(24年)をご覧ください。
ようやく第一次世界大戦の経済事情からイギリスは金本位制に復帰します。
中国上海の租界で5・30事件が起きます。帝国主義の横暴さがひずみとして噴出して死者怪我人を多数出す事態となりました。
ファッションではフラッパーといわれるスタイルが定着しました。おもにショートボブで丈の短いスカートが流行りました。若い世代が主張した時代です。
狂乱の20年代、ロバート・レッドフォード主演映画「華麗なるギャツビー」(74年)でのファッションです。フィッツジェラルドの原作「偉大なるギャツビー」が出版されたのが本作品と同じ1925年度です。ヒロイン、デイジーのファッションがそんな感じでしょうか。
ミア・ファローはそんな感じでしたか。
あの映画には「 I’m Not Scared」でヒットを飛ばしたエイスワンダーのパッツィー・ケンジットも子役で出ています。彼女はリーサル・ウエポンの続編でも悪役で出て派手な死に方していたような。ウィキで読むと父親はギャングだそうです。関係ないか。
残念ながらディカプリオ版は未見です。すいません。
映画といえばチャップリンの「黄金狂時代」が封切りされました。
この年代のトレンドは金鉱探しだったのかもしれません。アンソニーにハナシを持ちかけるジェイムズ・マグラスもアフリカでの金鉱狙いの山師の設定ですから。
ちなみに1925年はチャップリンの「黄金狂時代」とエイゼンシュタインの「戦艦ポチョムキン」の映画史オールタイムベストに残る作品が封切された年です。
総じて若者が挑戦する時代だったのがローリング・トゥエンティ。ロスト・ジェネレーション。パリ。文化が華やかです。
「チムニーズ館の秘密」にはそれらのトレンドが取り込まれています。
大正14年。
トロッキーが失脚します。
出所したヒトラーが「我が闘争」を出版します。
ムッソリーニがイタリアを独裁します。
華やかさの裏側では独裁、ファシズムの台頭を予感させる出来事が起きています。
ローリングトウェンティ屈指のチムニーズ館の三英傑…
あ、いや間違えました。
ダメ男三人です。
ロード・ケイタラム
このかたそれなりの伯爵か侯爵の爵位らしいですね。ケイタラム卿。バンドル嬢の父君ですがまったく安定のダメっぷりです。本作でもそのやる気のなさと健忘気味の頭脳を披露しますが次の「七つの時計殺人事件」(29年)でも没落気味な貴族、公家のようなダメさ加減です。
本人は爵位も継ぎたくなかったようです。四年後には先代ケイタラム卿の嫁である義姉のマーシャ、レイデイ・ケイタラムからカンペキに見くびられあなどられています。
当然娘のバンドル嬢からは頭のてっぺんからつま先まで見透かされています。
しかし娘のバンドル嬢の気性から当節の若者を理解しているようです。ていうかあきらめています。面倒くさいことは一切やりたくありません。娘も好きなヤツのところにヨメに行け、です。ふむ。ある意味いい親父かも。
一押し本命のダメおやじです。
ジョージ・ロマックス
外務省の高級官僚です。
このひと四年後でもさらにダメになって登場するくらいのダメっぷりです。「七つの時計殺人事件」(29年)ではケイタラム卿と五歳しか違わないのに自分はまだまだイケルと娘のバンドルに結婚を申し込む許可を得ます。後悔するだろうに。ま、それも一興か、好きにしたらと容認する親父も親父ですが。
アタマは政党のことと自分の利益しか考えていません。ハナシが長く全員に疎まれています。とくに女性に。
本作では仕事のいい加減な部下の秘書(ビル・エヴァスレー)のハナシを鵜呑みにしてアンソニーの到着日を間違えています。それで当初の計画は水泡に帰します。こんなのを政府の中枢に据えていいのでしょうか。イギリス政府は。
部下のビル・エヴァスレーからは陰で「タラ漁師」と呼ばれています。バンドルにも言われています。シクシク。
対抗馬でしょう。
ビル・エヴァスレー
ジョージ・ロマックスの秘書です。このボスにしてこの部下ありをまんま地で行きます。
高等教育を受けているのにもかかわらず仕事ではまったく使えない野郎です。
国益に重大な影響を与える案件である手記をたずさえたアンソニーの船の帰港日を滑舌の悪さと思い込みから取り違えしょっぱなから筋書きを台無しにします。
当然ボスの「タラ漁師」ことジョージ・ロマックスと同様に登場キャラ全員から疎まれています。
ていうかもっと悪いです。
完全に女性から男として人として格下扱いされているからです。
登場する全女性からあなどられ心情を読み取られ欲望を見透かされていることに気付いていません。完全にボンクラ扱いされています。歯牙にもかけられていません。
女性、とくにヴァージニアのケツを追うことしか考えていません。
当たり前ですが彼女に振られるのですが懲りずに即座に別の女性にアプローチするため終盤で電話しています。軽すぎです。大丈夫か、大英帝国です。
しかし彼は別の「穴」なのです。
キャラクターそのままでバンドル嬢にはあなどられ続けますが四年後の事件では主要な働きをします。
でもやっぱりキャラはそのままです。スキです。
この三人はいい味出しています。
きわめて親近感をもてます。
このエゴ丸出しの素敵な登場人物たちは重くなりそうな国際陰謀小説を喜劇風味に仕立て上げています。
愛すべき三人です。みんな上流階級なんだけど。
四人のアウトロー
文字通りです。
完全なアウトローです。
アンソニー・ケイドとヴァージニア・レヴェル
トミーとタペンスをさらにワイルドにしています。ヘタするとボニーとクライドでも行けます。たいていのクリスティ作品では彼らのタイプは犯人です。
共同正犯がふたり。
ベストパートナー。
いわゆるソウルメイト。
このふたりは完全アウトローです。
「フランクフルトへの乗客」(70年)のサー・スタフォード・ナイとメアリ・アンと同じクラスの人間力の持ち主です。
上流階級であり野蛮人です。コントロールされたサイコパスです。
三島由紀夫がいうところの「NOBLE SAVAGE」高貴なる野蛮人の血筋です。文化人類学的な意味合いではありません。変わらないか。
アングロサクソン人ですね。こういうひとがSAS(イギリス特殊空挺部隊)を占めているのでしょう。あとMI6とか。
自宅で見つかった見ず知らずの射殺体を片付けるのを頼み頼まれそれらの行動にちゅうちょしません。初対面にもかかわらずツーカーです。
突き抜けているというべきか、善悪の彼岸に達しています。
心情を推し測る駆け引きをしつつも信頼が揺らぐことは決してありません。
この「チムニーズ館の秘密」ではアンソニー・ケイド、ヴァージニア・レヴェル、ジェイムズ・マグラスなど本当の貴族的振る舞いで行動する人物が登場します。
彼らはいわゆる天爵がある人物たちです。
バトルをもってしてアンソニーにヴァージニアとふたり、捜査に参加してもらえないだろうかと匂わせます。
アイリーン・ブレント(バンドル)
本作でのサブヒロインですが将来を期待させる大物の貴族女性です。相当腕が立つキャラです。むちゃくちゃな運転でクルマをぶっ飛ばします。
そのため四年後ひとをはねます。安全運転をこころがけましょう。
アタマも冴えています。肝も据わっています。
腹も減っています。
自宅で殺人事件が起きて興奮し食欲を刺激され「あたし、すごく飢えてるのよ」「だって、強烈な刺激だもの」だののたまいエッグズアンドベーコンをがつがつ口いっぱいほおばります。
クリスティ作品で登場する「血ダクでおねがい」タイプは「ハロウィーン・パーティ」(69年)、「死者のあやまち」(56年)と少女で被害者が多いのですがバンドルは生き延びるどころか四年後ヒロインです。
次の「七つの時計殺人事件」(29年)ではバトル警視も一目置くほどの捜査力と実行力を見せます。
本作でも親父のケイタラム卿の首ねっこを押さえています。高級官僚(タラ漁師)もその秘書(トンマ)も一緒くたでボンクラ扱いです。
ヨメにするとケイタラム卿のいうとおり亭主は大変な目に合うタイプです。
貴族で烈女子。
バンドルは位を得ていますが間違いなく並みの男を剋します。これは位を得ているヴァージニアも同じです。
わたしが亭主なら早死にするか出家するでしょう。
バトル警視
体制内のアウトローというべきか。もしかしたら体制なんか犬に食わせてしまえというタイプかもしれません。この警視の愚鈍風な表情は訓練で身につけたものです。
プロ中のプロ。
これは四年後の「七つの時計殺人事件」(29年)ではっきりします。このときラストにバトル警視は池波正太郎の名作「仕掛人藤枝梅安」シリーズの音羽の半右衛門状態です。
父親としても人間としても尊敬できる職業男性の鏡のような人物です。このひとでなければ傑作「ゼロ時間へ」(44年)は成り立ちませんでした。
しかし彼もやはり突き抜けています。「俺が法律だ」のオソロシイタイプであるのは間違いありません。彼が五人の子どもの良き父親でなければたいへんヤバイキャラでした。
うちひとりのセガレと思わしき人物は情報部に所属して後年「伝説の名探偵」状態のポワロと冷戦時の共産国のスパイ殺人の謎解きに挑みます。「複数の時計」(63年)
この作品は地味ですが当時のイギリス住宅街を描き生活者である女子(タイピスト)を描いています。非常に味わい深いミステリです。
セガレはそのコに惚れて動きます。
「チムニーズ館の秘密」のまとめ
登場する男たちを見るとほんとあやうくダメ梁山泊のようなチムニーズ館です。
しかし実は魅力的なバンシーが棲む魑魅魍魎のチムニーズ館でもあります。
そして栄光の20年代のイギリス貴族の館でもあるチムニーズ館でもあります。
そのうえとにかく暴言がこだまするチムニーズ館です。
「チムニーズ館の秘密」は女性の冒険ならぬ暴言小説と言っていいくらいです。
タラ漁師だのとんまだの靴を投げつけるだの噛み付くだの。
あ、これは全部バンドル嬢のセリフですか。
ヴァージニアは男の篭絡のしかたをまったく良く心得ています。ヴァージニアは27歳ですが手練手管は千年生きた魔女のそれです。
たいがいの男は骨抜きです。
死んだ亭主の外交官には未練がこれっぽっちもありません。いやはや。
しかもこのふたりはボディタッチを積極的に使います。
自分の魅力を最大限に活用します。
引き込まれるような国際謀略盗賊冒険ミステリです。
帰ってこられないかも。
犯人はひとたまりもありません。
あと当時のバルカン諸国がどのようなイメージだったのかがヘルツォスロヴァキアの国民性の描写でよくわかります。
必ず復讐を誓い報復して犯人は八つ裂きにしてバラバラです。
とてつもなくオソロシイ国です。