クリスティの代表作を連発していた時期の1939年度の田舎町のミステリです。同年「そして誰もいなくなった」を発表しています。物語の後半に大物警視としてバトル警視が登場します。そのおかげで純粋に元植民地警官の主人公とシンクロして当時の田舎の風景を眺めつつ推理を楽しめます。
「殺人は容易だ」のあらすじ
マヤン海峡の植民地警官だったルーク・フィッツウイリアムはめでたく引退してイギリスへ帰国しました。しかしダービー優勝馬の確認のためたまたま停車した列車から降りたところそのまま置き去りにされ次の列車でロンドンへ向かうことに。
ところがその次の列車で偶然乗り合わせた老婦人からルークは世間話の延長で意外な話を聞き及ぶことになるのです。それはにわかには信じがたい話でした。その老婦人ピンカートン夫人が言うのには彼女の住む田舎町ウイッチウッド・アンダー・アッシュでは連続殺人事件が起きているというのです。
妄想だと内心感じていたルークでしたがピンカートン夫人の意思は固く、これからそのためにわざわざロンドン警視庁へ出向くところでした。
翌日、ルークはその老婦人がひき逃げにあったことを友人宅の朝刊で知ります。自分の叔母を思い起こさせるピンカートン夫人の訃報にルークのこころは曇ります。
そして一週間後。ルークは死んだピンカートン夫人の言ったことが事実である可能性に目を見張るハメになります。その日の朝刊にピンカートン夫人が次の犠牲者になる可能性があると予見した医師の死亡記事が載ったのです。住所はやはりウイッチウッド・アンダー・アッシュ。
引退したとはいえ元警官のルークのカンがこの件には疑いがあると感じます。ウイッチウッド・アンダー・アッシュにいとこが住む友人ジミー・ロリマーの紹介でそのいとこの邸宅へ民俗作家のふれこみでルークは滞在を決意し調査に乗り出します。
ヒマですな、ルーク。
良い身分です。植民地警官の任務をまっとうして恩給はたんまり、おまけに本国に帰国早々ダービーで大穴を当てます。
あぶく銭が百ポンド。二百万円くらいではないでしょうか。換算率は「パーカーパイン登場」(34年)を参考にしています。
しかしクリスティはあぶく銭を当てさせるのがスキですね。「雲をつかむ死」(34年)でもラストでポワロのハゲアタマにキスするヒロイン、ジェーン・グレイにアイリッシュ競馬で的中させてます。同じく百ポンド。
彼女はホテルのカジノのルーレットにも賭けてますから相当のバクチ好きです。基本的にクリスティのヒロインはバクチ好きのはるかに上をいく人物ばかりですが、今回は男性です。
ルークがうわのそらで列車から降りて置いてけぼりをくらうぐらいは仕方がないですね。人生での持ち運の配分もありますからね。運を使いすぎてストーリーの中盤で殺されてしまうと元も子もありません。
彼のヒマと手間と金の結晶である捜査が「殺人は容易だ」の事件の真相に迫っていきます。
しかしなかなか馬鹿にしたものではありません。ルークがいなければほぼ間違いなくなかったことになっていた事件です。
クリスティの一番アブラがのっていた頃のミステリです。非常に舞台の描かれかたが緻密です。
田舎町を舞台にしたホラーテイストのオソロシイ事件です。
「殺人は容易だ」の時代背景
「そして誰もいなくなった」と同年のミステリです。イギリスはドイツとの戦争に突入します。
が、ドイツがポーランドに侵攻するまであいまいなままの気分でした。ヒトラーがムチャクチャやらかすとはイギリス、フランスとも思っていなかったようです。その気分は戦争開始後もやや続きます。ひとりチャーチルが危機感をつのらせていました。
これは第一次世界大戦の驚異的な戦死者や傷病兵の数を考えるとうなずけなくはありません。しかしヒトラーは狂人といっていいほどの意志力を持っていました。またドイツに対してタカをくくっていたようですね。切羽詰っていたドイツの国情を感じていなかったのでしょう。
いずれにしろ戦況は開戦当初連合国側には思わしくなくダンケルクからの撤退まで負け戦ムードです。
クリスティはこの戦況の中でもその世相を感じさせないミステリの傑作を書き続けます。
しかしほぼリアルタイムで描かれているトミーとタペンスシリーズでは別です。
「NかMか」(41年)ではクリスティのリアリズムが炸裂。イギリスが本土決戦を迎える可能性があるにもかかわらず正面からベレズフォード夫妻の対独スパイ戦での活躍をユーモアを交えながら描いています。
またクリスティは一生活者として戦争への考えを述べています。ギリギリの状況でもクリスティは人としても尊敬に値する作家だったのがわかります。
田舎町の恐怖
だいたい町の名前からしてウイッチウッド・アンダー・アッシュですからね。
こんなオソロシイ地名の村にはわたしなら絶対いきません。だいたい連続殺人事件が未解決状態でしかもそれをお上に訴えようとした人物がソッコウで消されてしまうんですからね。
しかも登場人物がひとくせもふたくせもある人物ばかりです。
とくにヒロインのブリジェット・コンウェイは男に手ひどく振られヤケ気味です。成り上がりのホイットフィールド卿の秘書であった彼女はあきらかに金目当てで彼と婚約します。
結婚相手は小男ぶさいく無教養な年齢は30歳くらいしか離れていないホイットフィールド卿です。ブリジェットとはすこし年齢が離れすぎですか。しかし親近感が持てる人物です。おふたかたとも。
ちなみにホイットフィールド卿は「閣下」と呼ばれていますが村の靴屋の息子です。金で買った爵位みたいなものです。彼もけっこう悲惨な造形のキャラです。ぶさいくで下品の権化のようなおかたです。ホント、親近感がもてます。
ブリジェットを振った男も金目当てでデブの年増と結婚してしまいました。愛はどこへいったの?シュープリームスの歌じゃありません。当節と変わりありません。
金目当てでなにが悪い。いやまったくです。
しかしブリジェットは聡明です。ワリ切れる女子ブリジェットはすぐルークの正体を見破ります。過去に興味があるようには見えないし、未来も考えていない。現在しか興味がない男だとルークを評します。このブリジェットもバクチ打ち系の女子ですね。容疑者系でもあります。
容疑者が多岐にわたります。これは元植民地警官のルークには少し荷が重いのでは。殺されたと思われるピンカートン夫人が村のおまわりさんジョン・リードには荷が重いと言っていましたがルークにも少しヘビィウエイトではないでしょうか。
ルークは多情というより植民地で女っ気がなかったんでしょうか。連続殺人と同じくらいの比重で女子のことを考えています。まあ、本作「殺人は容易だ」は男は外見に問題がある人物が多いですが、女性は見目麗しいですから。ただ田舎町でのナンパは容易ではありません。
彼のおかげでイロイロ村の内情を楽しめます。
あとなんか使用人が不足しているわりには比較的安易にクビにしています。安易でもないか。寝過ごしたりガールフレンドと無断でクルマを乗り回してる運転手ですからね。
風俗が乱れまくれています。
いちばんキテレツに思える悪魔崇拝主義者のサバトイベントの企画立案発起人はなんか安心できます。
この時期の作品に限らずクリスティのミステリでは超自然的な暗示や悪魔や呪い系のハナシがでますが、今回はオーソドックスに特色ある田舎町の恐怖として描かれています。
「殺人は容易だ」のまとめ
クリスティが精力的に作品を発表していた頃の「殺人は容易だ」だけあって描写が濃密です。
本作ではバトル警視が最後半にウイッチウッド・アンダー・アッシュに香り付けに登場するだけです。そのぶん読み手は事件に興味をもった元植民地警官のルークとともに田舎を満喫できます。
似たシチュエーションの「動く指」(43年)ではミス・マープルが中盤セント・メアリ・ミードからリムストック村に召喚されます。
こちらはカルスロップ夫人という変人扱いされる、実は真実を見抜く牧師夫人がどのような評価が田舎でされているかミス・マープルによって説明されています。田舎は難しいですね。
ちなみに「動く指」(43年)はクリスティの自選十作品のひとつです。
本作品「殺人は容易だ」でも田舎町のウワサ話の伝達スピードのはやさ、年寄りのカンの良さなどが描かれています。貴族の没落と下層階級からの成り上がりはバトル警視の10年前の「七つの時計殺人事件」(29年)でもうかがえますが、より鮮明になっています。
また「ハットペイント」ですね。ムカシは帽子の色を自分で染めていたのですね。
あと看護師が驚くのは症状が悪化したときではなくて回復したときだという部分ではクリスティのスパイスが効いてるなと思いました。もしかしたらスパイスではなくて事実かもですが。
バトル警視
前回バトル警視は「ひらいたトランプ」(36年)でポワロ、レイス大佐と登場しました。バトル警視はこのあと登場するのが「ゼロ時間へ」(44年)のみになります。
が、この作品はクリスティが自選十作品にいれるだけあって素晴らしい傑作です。ひとが信じられなくなったとき、きっと読者を勇気づけてくれること間違いナシです。
「ゼロ時間へ」(44年)は超自然的なものを思わせる因縁の作品であり意欲的なアイディアが盛り込まれた素晴らしい人間ドラマです。バトル警視が家庭人としてもどういう人物であるかもはっきりわかります。
バトル警視の存在感が読者に不動のものになります。