1952年作品。メアリ・ウェストマコット名義5作目。単純に、娘に再婚を反対されキレた母親のオハナシではありません。母と娘の相克のハナシでもありません。これは母と娘のハナシというよりも母親アン・プレンティスが夢のなかで夢をみて、すべて夢であることに気づくオハナシです。しかしこの夢はやはり現実としか思えない本物の夢でもあります。アンの見た夢は私たちすべてが見ている夢です。
「娘は娘」のあらすじ
娘のセアラを三週間のスイス旅行に送り出した帰り道、母親であるアン・プレンティスは自分の人生を振り返ります。
夫を早くに亡くし、懸命にひとり娘のセアラを育て、41歳になる自分。女としての自分の人生とは。
その夜は娘がスイス旅行に出かけて淋しかろうと、ジェームズ・グラント大佐が食事会に誘ってくれていますがなんとなく心が晴れません。
25年来の知り合いであるグラント大佐は日ごろアンに好意を寄せてくれていますが、いわゆる「長々と同じ話をくりかえす」タイプです。
ソース鍋を買いに陸海軍ストアに立ち寄ったアン・プレンティスは衝動的に電話ボックスでダイヤルを回します。
年上の友人であり著述家でもあるデーム・ローラ・ホイスタブルに連絡したのです。そこでデーム・ローラに女としての自分の漠然とした不安と孤独を打ち明けます。
その夜、アンはグラント大佐の催してくれた食事会でビルマから帰ったばかりのリチャード・コーフィールドと出会います。彼は妻を出産時に亡くし、独身でした。
急速に接近していく二人。そしてプロポーズ。
三週間後、セアラがスイス旅行から帰ってきます。
そしてやはり猛反対。
アンはリチャードとの結婚をあきらめ、娘であるセアラとの人生を選択しますが…。
いやはやヒジョーにシングルマザーとして感じる話です。
いや、感じるわけないか。ワタシ、オッサンだし。
ただ、スナックを経営していたシングルマザーのセガレ(当時は母子家庭の子)としては母親の再婚話としてはなんとなく共感できなくもありません。
前半部分の貞淑な母親だったアンも中盤の奔放に見えるアンも後半の夢から醒めたようなアンも、シングルマザーのセガレとしてはなんとなく不安になるような。あ、これは共感とは言わないのか。
ちなみに、わたしの母は夢から醒めませんでしたが。
母は死ぬまで「女としてもうひと花咲かせる」と申しておりました。タフですな。
頭が下がります。てゆーか、さすがにあきれますな。
タイトルの「娘は娘」とはさすがアガサ・クリスティだと心底感心いたします。
「娘は娘」時代背景
昭和27年。
ミス・マープルが女学校時代の旧友ために人肌脱ぐ「魔術の殺人」(1952年)と同時期の作品です。
詳しい時代背景はポワロが誠実な老遺言執行人のために行動を起こす「葬儀を終えて」(1953年)をご覧ください。英国含め、世界の転換期になる時代です。
「もはや戦後ではない」と言われる数年前の「まだ戦後である」の時代です。ですので描写される風景としてはイロイロと変化が感じ取れる小説といえます。
ミッドライフクライシス
ちょっと前から一般的にはよく「中年の危機」とか耳にする言葉ですね。
でも、大概のひとには遠くに耳にするだけの言葉でした。以前は。
なんせムカシは(て、いつ?)生活が大変で「自分の人生とはいったい…」とか、悩みなんか考えている時間がありません。考えても一瞬で吹っ飛んでいきます。食べていくのが精一杯というところでしょうか。
でも、これ今も変わりないかもしれませんね。生活はイッパイイッパイだし。先行きは不安だし。
昔から「銭湯にいく」と言って突然失踪するお父さんとか、穏やかな家のお母さんが夕飯の買い物に出かけたきり帰って来ないなどそれ風なコトはあったみたいです。歌にもよくありますしね。
「中年の危機」を発言する人々の声の音量が増したというだけでしょうか。
おかげで最近はよく耳にします。「ミッドライフクライシス」
若者だけではない中高年の自分探しです。
本質的に「男性」「女性」、「男として」「女として」とかのモラルのハザマの問題ではありません。
これは「人間」として生きていくうちに生じる「問題」です。
そして「なにも問題はなかった」という、つまりそのままを是とするだけの答えにいかに気付くかというどうでもいいというか、お話の「青い鳥」がまんま答えの危機です。
結論から言うと危機はありません。
が、あると思う「自己」だと信じている「習慣」が危機だと感じるだけで、今回ヒロインのアン・プレンティス、娘のセアラ・プレンティスの「自己」がともに年齢相応、性格相応にハマリます。
そして本来の軌道に復帰するというか、夢の中での夢から醒めるまでのお話です。
クリスティの「娘は娘」は非常にシンプルなストーリーに思えて、人生の本質を指摘している示唆に富んだお話です。
ただの娘に再婚を反対されて恋に破れた母親がヤケクソになるハナシではありません。
娘と母親の確執と和解のハナシでもありません。
この世はすべて夢であるというオハナシかもです。
「軽騎兵隊の突撃」
テニスン「軽騎兵隊の突撃」です。こっちが危機です。
このテニスンの詩はクリスティの幻想推理小説「謎のクィン氏」(1930年)にも出てきます。独特のテイストのこの小説は一読の価値がありです。また主要登場人物で、ある意味「謎のクィン氏」より謎に女性に詳しい「サタースウェイト氏」はクリスティの「三幕の殺人」(1935年)にも登場します。謎です。
さて、「同じハナシを延々とするオッサン」、ジェームズ・グラント大佐をデーム・ローラ・ホイスタブルはこう評します。テニスン「軽騎兵隊の突撃」みたいだ、みたいな。なぜなら、彼はしょっちゅう女性を口説いていますが成果はさっぱりだからです。
デーム・ローラは彼には第二次大戦のダンケルクの撤退作戦よりこちらの詩に歌われた戦い(バラクラヴァの戦い)がどちらかいえばお似合いだと言い切ります。
このバラクラヴァの戦いは六百騎の騎兵がほぼ全滅です。
成果ゼロです。
つまりグラント大佐も女性に対して成果ゼロです。当然、アンに対しても同じで前半リチャード・コーフィールドを登場させる食事会を開くためだけのモテないオッサンキャラです。くっ。
また、後半に登場して最後半に大活躍する「アッシー君」バズル・モーブレー君。
アンのボーイフレンド風ですがただの運転手役です。「急いで空港まで」とか、まるでタクシーのように使われています。くっ。
そしてアンとセアラの火種となる真面目な頑固者というか融通が利かない明治生まれだと思われるリチャード・コーフィールド氏。
中盤で男友達いっぱいのアンと別の若い女性と再婚した彼が出会います。
しかし、頑固ではあるが誠実な人物だと思われていたリチャード・コーフィールド氏は「わたしはなぜあの男を気に入ったんだろう」とかとアンに思われて、すぐアウトオブ眼中になってしまいます。
おいおい。そりゃ、事実としても身もふたもないぜ、アンちゃんよー、ですな。リアルです…。くっ。
そして唯一の軽騎兵隊の生き残りがセアラのボーイフレンドの中のワンオブゼムでしかないと思われたジェリー・ロイド君。
「人間ロボットです。さてこの荷物はどこに置くの、セアラ?」とかまるっきりアッシー、メッシー、ミツグ、ツナグ君をすべてを足しても足りないどころか、生命体ですらない存在になれる彼。
敬服致します。
ラストでシャブ漬けにされたセアラを救い出します。
まさしく彼をして「男子三日会わざれば刮目して見よ」の好漢というべき人物でしょう。ウーム。
なんてハナシだ。
「娘は娘」のまとめ
ミス・マープルの「バートラム・ホテルにて」(1965年)でも出てくる陸海軍ストアが頻繁にというか、重要場面で出てきます。物価が上がっていて冒頭に購入しようした鍋も高いです。
アンはそこで陶磁器で掘り出し物を見つけます。ここらはクリスティらしく生活感がよく出ていてリアリティがあります。
また、二人の人物がキーウーマンです。(男はピーマンしかいません。くっ)
すなわち、デーム・ローラ、そして古くからのプレンティス家のいわゆるハウスメイドというのでしょうか、イーディスです。
デーム・ローラはアンとオハナシはしますが、干渉しません。
無駄だと判っているから。
諦観しています。
そして彼女はアンの深層意識の代弁者的存在でもあります。
アン自身も戦争での緊急救護の活動中に人間とは不可解なものであると知っています。とゆーわけでラジオにも出る著名な講演家、著述家デーム・ローラはひとに干渉しません。アンにもです。
しかし最後の最後、鉄のオブザーバー、デーム・ローラにひとことアンに告げるよう強権的に促す人物が登場します。
ずーっと説教くさいメイドだなーと思っていたイーディスです。
まさに彼女はプレンティス家の真のハウスメイドです。敬礼。
当たり前ですが、このアガサ・クリスティの「娘は娘」はイプセンの「人形の家」のノラの母親バージョンではありません。キレてというか、あるがままに生きていこうとした女性のハナシではありません。
現実世界だと思われているのはすべて夢の中の夢でしかないというオハナシです。
長い夢です。ラストでアンが二度寝に入るようにおはなしは終わります。
あまりに夢が鮮明だったと思えるのは眠りが浅かったのでしょうか。
繰り返しますが「娘は娘」は非常に示唆に富んだ、深い深い誰にも当てはまる夢のハナシです。
若い方、中高年の方、男女すべてに一読をお勧めします。