バグダッドの秘密 THEY CAME TO BAGHDAD 中村妙子 訳

1951年ロンドン娘の痛快大冒険小説です。光り輝く即興のウソと演技力を武器に天涯孤独でも人生を押し進みます。行動力パねぇす。ヴィクトリアの中のひとなんていません。右脳全開ヴィクトリア・ジョーンズはクリスティの化身かも。ウソと芝居は女の武器です。ゴー!ヴィクトリア。

「バグダッドの秘密」のあらすじ

社長の奥さんのモノマネをして不興を買い首になったタイピスト、ヴィクトリア・ジョーンズは似非公園風の空き地のベンチでサンドイッチを食べていました。

もちろん落ち込んでなんかいません。

一般とは異なる彼女の天性はその境遇を楽しんでいました。古い会社とは縁が切れたことだし次はどんな仕事にしようかとワクワクしていたのです。

その時ベンチの片方になぜか超絶美形の青年が。彼の名はエドワード。第二次大戦中は空軍のパイロットで勲章も授けられた勇士でもありました。

会話を交わして彼のとりこになったヴィクトリアは決心します。

バクダッドでの文化普及事業に職を得たエドワードを追って彼の地へ赴くことを。そしてまずは立ち上がってセント・ギルドリック職業紹介所へ向かいます。

いざ、バクダッドへ!

ヴィクトリアは片道キップでバクダッドに向かいます。重要な面接面談すべて当意即妙な変更を加えたシナリオで即興芝居を演じて切り抜けます。

スゴイの一言ですね。オトコを追っかけて。やっぱ動機はこうでなければ。

かたや彼女以外のオトナの状況は不穏です。立ち込めた暗雲がロンドン上空からバクダッドへ移動していきます。情報部が動いている国際的な謎はすべてバクダッドを指しています。

状況がヴィクトリアを支配しきれるか、それともヴィクトリアのほんのわずかな行動が状況を一変させるのか。

天涯孤独のロンドンガールの土性骨(どしょっぽね)が全編をおおっています。

「バグダッドの秘密」の時代背景

「ねじれた家」(49年)「予告殺人」(50年)「マギンティ夫人は死んだ」(51年)「葬儀を終えて」(53年)をご覧ください。

朝鮮戦争真っ只中です。アメリカの「M☆A☆S☆H」(原作リチャード・フッカー)で描かれています。のちにロバート・アルトマンが映画化しました。

ちなみにスティーブン・キングがでるまで続編はメイン州がメインになる小説としては有名でした。メインなだけに。

朝鮮戦争はイギリスはあまり関係がないかもです。(国連軍としては参加していました)イギリスでは保守党チャーチルが政権を奪い返します。

べヴァレッジプランを巡り迷走中といっていいでしょう。福祉と経済成長の両立は本当に難しいですね。これからさらに果てしなく迷走し続けます。

ネバダに核実験場ができます。ここでアメリカはバンバカ実験してビキニ環礁へと外部でもやります。クリスティも核の恐怖を感じたと思います。

またこの段階でもクリスティは共産主義に対してもフェアな態度をとり続けています。メディアではなく現場での自己の知見を優先させたのでしょう。

本当の知的な女性です。当時の状況を現在と鑑みるととてもそんな冷静に振る舞えないと思うのですが、クリスティはやりました。わたし達は偉大な先人から学ばなければなりません。「情報を鵜呑みにするな」です。

東西対立が激化です。そこに中国も加わってきています。

この「バクダッドの秘密」は非常に微妙な時期の小説です。

戦後でありかといって戦後スグでもない。新兵器の実験が開始されている。戦前戦時中からのアイディアをもとにノイマン型のコンピューターが稼動しだしています。

日本はもちろん朝鮮戦争の特需です。VANがこの頃できたみたいですね。石津謙介氏ですね。

そしてこの時期の作品としては主人公ヴィクトリア・ジョーンズの行動は特筆すべきです。すべてを先取りしています。半世紀以上前、66年前のキャラクターとは思えません。

クリスティは61歳です。なぜこんな女性を描けるのか。まったく驚嘆させられます。

このロンドンから来た娘

ヴィクトリア・ジョーンズはニューヨークアクターズスタジオのリー・ストラスバーグか生前のつかこうへいに演技指導を受けたような芝居をします。

小芝居ではありません。インプロビゼーション(即興)のカタマリです、よく言えば。

ヴィクトリア嬢は豊かな演技力を駆使してどんな艱難をも突破します。もはや人生が舞台アートです。よく言えば。

アンタのほんとのハナシはどこからなの!です。悪く言えば、てか普通に言えば。さらに悪く言えば常習のウソツキのペテン師です。

問い詰めたらたぶん「全部本当のことよ。でもたとえそうじゃなくても愉快じゃなくて」とジョーンズ嬢に返されるでしょう。ヴィクトリアなだけにヴィクトリア朝風に。

これを煙にまかれるというのである、とわたしなら自分にいいきかせてオワリ。

楽天的で覇気があり魅力的なスタイルの持ち主に言われたらイチコロですな。けっこう嫉妬深くて怖いですが。

「バクダッドの秘密」は荒唐無稽にも感じられますが、これは十分あり得ます。人生はそんなものですから。

美形男子に弱くウソツキ

主人公ヴィクトリアはクリスティのミステリで端役で登場していたら会社をクビになるのではなく犯人に首を絞めらて死体でチグリス川に浮いていたでしょう。設定の役どころとしてはピッタンコです。

まあ、死後八時間経過、死亡推定時刻は深夜十時から明け方四時まで。そしてポワロあたりに「彼女は美人でしたか?」とか尋ねられている物体と化していたのではないでしょうか。

「ABC殺人事件」(36年)のイラク版みたいですね。

ですがそうはいきません。彼女の運勢は強いのです。というか天命があったんでしょうね。自分でもラストで語っています。

引き寄せの法則を具現化したヒロイン

またヴィクトリアはベッドでは不都合な夢は見ますが現実では夢を見ません。あくまで現実的な道を模索し続けます。

バクダッドへの片道キップを手に入れるため職業紹介所へ向かい、イラクで誘拐され捕虜になるという逆境にあっても明日の活路を見出すため食事を摂ります。

死地を窮地に緩和して活路を見出すのです。

わたしのように「どうしよう。こなければよかった。メソメソ」とかしません。無駄に「てめーら、舐めてんじゃねーぞ」とか吠えたりもしません。

粛々とリアルに行動します。他者から荒唐無稽に見えても現実でできる行動を積み重ね結果を引き寄せます。

まさしく引き寄せの法則を体現した女性といえるでしょう。

ここがミステリの被害者になるか冒険小説のヒロインになるかの分かれ目ですね。これはわたしは見習わなければいけません。今からでも間に合うかしら。

天涯孤独のヒロイン

見過ごしがちですがこれが彼女の原点でしょう。

仕事はタイプミスだらけです。化粧や身だしなみには気を払います。

オトコを追いかけバクダッドへ。問題ありません。タフですね。彼女が時代的に戦災孤児だったのかそれともどうなのか描写はありません。

ただ「ポケットにライ麦を」(53年)に登場するオフィスレディのように一般的な作法や常識を身につける時間がなかったのかもしれません。

学ぶべき娘時代は戦時中です。バクダッドでもっと教養を身につけておけば良かったと思うジョーンズ嬢です。

親戚は全然やさしくないオジサンだけのようです。手紙も書きたくないようです。両親がいなくて家族のバックアップがない女性は当時いっぱいいたのでしょう。

もちろん今もいっぱいいます。家族がいない場合教養を身につけるのも自分で気づかなければならないし、落ち込んでも励ましてくれるのは自分自身だけです。途中で施設で育ったのかもしれません。

でもジョーンズ嬢は昭和ヒトケタ世代だと思われるのでパワフルですからね。かってに斟酌するな、とか言われそうです。

クリスティは彼女を愛すべき猫のような比喩で描写しています。ぴったりです。

「バグダッドの秘密」のまとめ

サイドカー、マティーニ、ハイボールとカクテルが出てきます。

つまみはピスタチオでジョーンズ嬢はピスタチオがお気に入りのようです。

あやうく死んでいた状況のあとポリポリかじっていてヘタしたら今時そんな脳天気にしていられなかったんだよとか言われてます。本人よくわかっていないかもですが。

クリスティが書くということはピスタチオは当時ロンドンでもなかったのでしょうか。それともジョーンズ嬢が知らない世界だったんでしょうかね。

日本では知られていなかったと思います。

食べ物もいっぱい出てきますがフォアグラやキャヴィアやロールキャベツはわかりますがよくわからないチグリス川でとれた魚なども出てきます。全然わかりません。

てかフォアグラもキャヴィアも当時の日本では知っているのは一握りで食べていたのはさらに少ないのでは。

気になるのが「ジークフリード」です。第一次大戦、第二次大戦と経験したクリスティが当時の世界情勢に漠然と不安を感じているのがよくわかる作品なのもこの「バクダッドの秘密」の特徴です。

とくに優生的な人種主義に非常に恐怖を感じているように思えます。この不安は19年後の「フランクフルトへの乗客」(70年)へと引き継がれます。

そしてそれはクリスティの最後の作品トミーとタペンスの「運命の裏木戸」(73年)で第一次大戦前までさかのぼりこころが若い凄腕情報員夫婦が真実に肉迫します。

この漠然とした不安感はジョーンズ嬢が東西対立について所見を述べるところでも強調されています。

受け取っている情報はコントロールされているとは思わないかい、と尋ねられます。

キミはその現場を確認したわけではなくメディアを通しただけで語っているだろうと。意見をはりつけただけだろうと。

これは今のわたし達への警鐘でもあります。

66年も前からアガサ・クリスティはわかりやすく注意喚起してくれているのです。自分の言葉で自分の見たものを語らなければなりません。耳が痛いですね。

クライマックスで殴られたジョーンズ嬢はミルトンの失楽園を気絶間際そらんじます。

助けられた人物にミルトンの引用だけど間違ってるなとか指摘されますが。

すると間違いじゃありませんわ、といい残して彼女は気絶します。見上げたロンドンガールのプロ根性です。

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